もし今後「クラシック音楽で好きな作曲家は誰ですか?」と聞かれたら、勇気を持って、いや、そこはさらりと分かってる感を醸し出して「ブルックナーです!」と答えましょう。それが言えたらあなたは立派なクラシック音楽通で、さらには無敵(の何か)です。なぜなら、クラシック音楽が好きな人でも、なんとなくちょっと近づきがたい印象があるのがブルックナーの交響曲。一方で熱狂的なファンもいて“ブルヲタ”と自称他称される一派も存在します。ブルックナー本人は、なにやらちょっと笑えない逸話も残っているトップオブ変人作曲家なのですが…。
アントン・ブルックナー
1824年 (0歳)
オーストリアに生まれる
1837年 (13歳)
聖フローリアン修道院の合唱隊に入る
1845年 (21歳))
リンツで教師として務めはじめる
1868年 (44歳)
ウィーン音楽院教授、宮廷楽団オルガン奏者になる
1869年 (45歳)
交響曲ニ短調が完成する
1891年 (67歳)
ウィーン大学より名誉博士号を授与される
1896年 (72歳))
ウィーンで死去
地味で苦労を重ねた幼少時代
モーツァルトは5歳で作曲して演奏家活動をしていたとか、青年リストは各国でキャーキャー言われていたアイドル的天才だったとか、作曲家の皆様はごく若い時から華々しい音楽人生を歩んでいることが多いもの。ですが、我らがブルックナーは全然そんなことはなく、かなり地味な人生を歩んでいました。
オーストリアの地方都市で教師をしていた父のもと、ブルックナー少年はわりにきちんと教育を受けて育ちました。音楽の分野も歌だけでなくヴァイオリンやオルガンなども学ばされ、いや、ちゃんと学んでスクスクと育っていきます。そんな教育熱心な父が亡くなった時、まだブルックナーは13歳でした。
ブルックナーには11人の兄弟がいて(成長できたのは5人)、生活は全然楽ではなかったようです。なんとブルックナーの母親は、夫が死んだ日のうちにブルックナーを修道院に預けに行ったのですから、よっぽど窮地にあったということになります。お父さんの死を嘆く暇もなくよそに預けられる。想像するとちょっと痛々しいですね。ブルックナーはそこで合唱隊として生活をしていくことになります。苦労して育ったわけです。
まじめだけど、趣味趣向がキモすぎる
そんな中でもブルックナー少年は好きな音楽に触れながら生活し、勉強も続けて教師の資格を取ります。偉い。同時に教会でオルガンを弾く地位も得て、ブルックナー青年はまじめに暮らしていたようです。当時の教師は今よりもさらに厳格な生活が求められていて、ダンスホールで踊ったり人前でお酒を飲んで騒いだりしてはいけないという風潮がありました。ブルックナーも表向きはそれを守っていたようですが、こっそりカフェで音楽を弾いたり、その場で歌ったりしたということが今では分かっています。いや、それくらいだったら他の作曲家よりマシだし、めちゃくちゃいい人では? と思いますね。そこがなかなかそうはいかないのがクラシック音楽の作曲家界なのです。
まずブルックナーは全然モテなかった。分かっているだけで9人にプロポーズして9人に振られ、生涯独身でした。全敗の惨敗。超絶イケメンと言われたリストと比べるとかわいそうなくらい、そこまで容姿に恵まれなかったという側面(当社比)と、性格にかなり難ありだったという部分があったようで。元々若い時から全くモテなかったブルックナーは、恋愛の成功体験がないからなのか、いくつになっても少年の時のまま、少女に恋していたようです。キモいな。
20代で10代の女の子に心奪われるのはまだしも、60代、70代になってもずっと10代の女の子が好きだった。ウィーンの女子校で生徒を「ぼくのかわい子ちゃん」と呼んでしまってクビになったりもした。やばい。ブルックナーは徹底的に美少女趣味でした。メモ魔のブルックナーはちゃんと自分が目をつけている美少女のリストまで作っていました。キモ過ぎですね。
そうして実際に気持ちを打ち明けたり、結婚を申し出たりしていたわけで、もうそれは今の時代なら一発アウトで音楽界から退場になっていたかもしれません。ただ、ブルックナーは少女に何かを無理強いしたわけではなかったので、勝手に失恋してくれているだけマシという見方もできます。キモいけど。いや。別に心の中で誰を好きになっても、心惹かれても別にそれはいい。何もしないでいてくれたら。ブルックナーが攻撃的でなく、おとなしい性格でよかったと心から思いますね。
そういうブルックナーの気弱さ、精神的な部分は他の趣味趣向にも表れていて、落ち葉でも石でも、なんでもかんでも数えるのが好きという計測癖や、なんでも集めたがる収集癖に加えて、死体(!?)に異常な興味関心があったようで、そのキモさを際立たせています。さらに徹底的に服装が洗練されてなく、傍目にも良いところが全くなさそうな人物像なわけです。並べて書くとなかなかの破壊力です。女性にモテなかったとしても、まぁ仕方ないのかなと思います。
ヲタクを虜にする複数の楽譜
そんなブルックナーは、30代になってから本格的に作曲の勉強をし、こつこつと曲を作り続けています。音楽家としてだんだんと評価されるようになり、その後オーストリアの地方都市リンツを出て、ウィーンで音楽院教授の職を得るまでになりました。40歳を過ぎてから大掛かりな作品である交響曲も作るようになり、遅咲きの大変な出世をしています。
交響曲はウィーン・フィルだけでなくドイツなどでも演奏されるようになり、クラシック音楽の巨匠へと上り詰めていきます。その交響曲はどれも重厚で、何度も繰り返される形式美のような作りが特徴的な、魅力的な作品ばかりです。正直に言えば、私個人はブルックナーの「作品が」大好きなのです。
しかし、ブルックナーはこの交響曲を実は何回も何回も書き直し、楽譜を作り変えているんです。生来の気の小ささや、精神的な弱さもあったからでしょうか。作品が演奏されるたびに評論家や観客に言われたことを気にして、また、オーケストラ奏者や指揮者からの評価に悩んで、言われるたびに曲を直す。演奏される、言われる、また直す。そんなことを繰り返していたせいで、ブルックナーの交響曲はどれも、楽譜になったタイミングの差で、同じ交響曲でもちょっとずつ違うものが複数存在することになったわけです。
このちょっとした差が、音楽愛溢れた人たちの興味と関心を惹くわけです。音楽愛好家としては、このオーケストラの演奏がどの版(楽譜の違い)なのか? が分かる俺、マジでエライ、になるわけです。こうして、人の評価を気にしすぎるブルックナーの気の小ささに端を発する書き換えの繰り返しが、現代のブルックナーヲタクの心を激しくがっつり掴むことになっているんですから、人生何が吉と出るか分からないものですね。本人はそんなつもり、全然なかったと思うんですけど。
そう思うと、このクラシック音楽界のトップオブ変人がなんだかかわいそうにも思えてきます。気弱で全くモテない晩成型作曲家。美少女趣味でキモいと思われながらも、こつこつと自分の交響曲を他人の評判を気にして書き換え続けてきた、なんだか可哀想な気さえするブルックナー。やばい人が多過ぎなクラシック音楽作曲家世界でも、かなり飛び抜けて変人だった。そんな彼は今年生誕200年のアニバーサリーイヤーを迎えて、世界中でいろんな楽曲が演奏される予定です。どうぞみなさんもどこかでその曲を味わってくださいね。