クラシック音楽に興味はなくても、音楽の授業中に聴いた恐ろしい雰囲気の歌曲「魔王」だけは覚えているという人も多いでしょう。インターネットの検索窓に「魔王」と入れてみてください。予測変換は「怖い」と「トラウマ」です。どんだけ怖かったんだ、みなさん。そんなインパクト大の楽曲を残した歌曲王シューベルトの、そしてクラシック音楽作曲家界隈としてはかなりレアな、その人生をお届けしましょう。
フランツ・シューベルト
1797年(0歳)
オーストリア・ウィーン郊外で生まれる
1808年(11歳)
王宮礼拝堂付き合唱団に入団
1813年(16歳)
合唱団退団
1815年(18歳)
教師を辞めてウィーンへ戻る
1823年(26歳)
「未完成交響曲」作曲
1828年(31歳)
死去
戦禍のウィーンで音楽の才能を発揮
フランツ・シューベルトは1797年にオーストリアのウィーン郊外で生まれました。父親は小学校の教師で、趣味でヴァイオリンを弾いていました。当時はその学校経営もシューベルトの父に任されていましたが、赤字続きのため一家は経済的にかなり困窮していました。12歳上のシューベルトの長兄もその学校で働かされていたというありさま。シューベルト自身も、かなり早い時期から労働力のひとりとしてカウントされていたようなのです。しかし、6歳の頃、父の手ほどきでヴァイオリンを始めてみたらみるみる上達したうえ、一年もしない間に父親が教えられないくらいの腕前になったのをみて、ちょっと方向転換を図られるわけです。
当時発足したばかりの王宮礼拝堂付き合唱団(現在のウィーン少年合唱団)に目をつけた父は、シューベルトを試験に向かわせます。そこで、モーツァルトの師でもあった作曲家サリエリにも出会い、めでたくシューベルトは全寮制で音楽学校の学費も免除の王宮合唱団に入ることができました。ひとり、家族でお金を使う人が減ったというわけで、父はとっても安堵します。なんかシューベルトが可哀想にも思えますね。
こうして11歳で華々しく音楽の世界に入ったシューベルト。その頃から作曲もして、めきめきと音楽の才能を開花させていき、コンヴィクト(現在のウィーン国立音楽大学)でもさらに音楽を発展させます。友人はシューベルトのことを「あいつはわりと陰キャで、なんか言いたいことあっても音楽にしちゃうようなとこあるけど、めっちゃいいヤツ(意訳です)」と、愛あるからかいを残しています。小柄なシューベルトの愛称はマッシュルーム。楽しそうな学生時代ですね。
とはいえ、この頃のウィーンは穏やかな時代ではなく、シューベルトが過ごしていた音楽学校の建物に、ナポレオン軍の砲弾が命中したこともあったとか。とんでもなく荒れるこの戦禍のウィーンにあって、ベートーヴェンも当時作曲をしていたのです。ふたりの生きた時代は、少し重なっているのでした。
友人わらしべ長者で20代を乗り切る
そんなこんなで学校を卒業したあと、18歳ごろのシューベルトは父親の学校の教師として勤めながら、その年だけでなんと140曲以上の歌曲を生み出していたのです。小室哲哉だって現在までで120曲くらいなんですから、シューベルトがどれだけ速書きでゲットワイルドな多作かがわかるでしょう。教師をやりつつですから、素晴らしい作業量です。とはいえ、やっぱり陰キャに教師業は馴染めず、2年もしないうちに辞職。その後、友人の助けもあってウィーンに戻り、さらに作曲に没頭するようになります。
この頃もシューベルトはやっぱり経済的には苦労していて、友人の家に間借りして住まわせてもらいながら作曲を続けています。そんな友人がさらに別の友人を紹介して、今度はオペラ歌手の友達もできて、その歌手がシューベルトの歌曲を歌ってくれて出版社が買ってくれて、と友人わらしべ長者的にシューベルトはなんとかウィーンで生きていきます。この友人ネットワークはもはやシューベルトのファンクラブかのように、ある人は食事を持ってきて、またある人は楽譜を買ってきてあげて、またある人は家を貸してやりと、シューベルトは常に周りに助けられて作曲を続けることができたのです。
名作「未完成交響曲」や、今もコンサートで歌い続けられる名曲「美しき水車小屋の娘」、聴くだけで脳内トリップができる歌曲「冬の旅」などもこうした時期に作られました。生活は決して豊かではないけれど、人の温かさと優しさに囲まれて生きるシューベルトの心がどれほど満ち足りていたかと想像します。
こんな素敵な友人たちに恵まれていたシューベルトですから、本人もどれほどいいヤツだったのかと思ったりもしますが、そんなでもなかったりします。自分が作った曲なのに難しすぎてうまく人前で弾けなかったことで耳を真っ赤にして、ピアノの蓋を乱暴に閉めながら「悪魔にでも弾いてもらえ!」とブチ切れたとか。恥ずかしさと悔しさでどうにかなっちゃいそうだったんでしょうね。なんか想像つくし、気持ちはわかる。
それから、ベートーヴェンの葬儀に参列したあと、友人たちとの食事中に「この中で一番早く死んじゃうヤツに乾杯な!?」と言って周囲をドン引きさせたりもしています。ユーモアのセンスも全然なかったようです。とはいえ、奇人変人作曲家界隈において、こんな性格くらいはなんでもない。むしろ可愛らしいくらいです。だからこそ彼の作る曲だけが目当ての人ではなく、そんなキャラクターごと愛せる人たちに囲まれていたと言えます。なんだかんだで素敵な20代だったように思うのです。
生涯独身。31年の早すぎる人生
30歳になった頃、シューベルトは大きく体調を崩します。それが、食べた魚が悪くて腸にダメージを受けたとか、梅毒ではないかなどと推測されていますが決定的なことはわかっていません。ただ、当時のヨーロッパで蔓延していた“なんでも水銀で治る説”の流行りで、その治療法が原因で水銀中毒となってしまったことは確かのようです。
1828年、シューベルトは600もの歌曲や8つの交響曲を含む、総数1000曲以上もの作品を遺し、たった31歳で亡くなってしまいました。尊敬するベートーヴェンの死後に発した「一番早く死んじゃうヤツに乾杯」は、自分になってしまったわけです。
シューベルトは生涯独身でした。モテまくったり不倫しまくったり、節操のない奔放な恋愛悲喜劇が大好きな作曲家ばかりのクラシック音楽界隈では稀有な存在です。恋人たちに囲まれることはなかったけれど、シューベルトには助けてくれる友達がいつも周りにいました。そして彼の死後もそれは変わることなく、葬儀から一年ほどあと、その墓碑を建てるための資金集めコンサートまで友人たちが行っています。そして遺言のとおり、尊敬するベートーヴェンの墓の横で、シューベルトは今も眠っています。
他のクラシック音楽有名作曲家のように、オペラが当たって大金を得たわけでも、交響曲をばんばん演奏される売れっ子になったわけでも、オーケストラの指揮者として名声を馳せたわけでもないシューベルトの音楽が今もこうしてここにあるのは、まぎれもなく周りの人たちとの温かい人間関係のたまものであり、遺された楽曲が埋もれないほどの光を放って、他の作曲家たちに守られたりしたおかげです。
地位も名誉もお金も、当時は全く持てなかったひとりの隠キャ作曲家の、そんな温かなコミュニティ形成こそ、もしかしたら今現在の私たちにとって、最も大事なお手本になるのかもしれません。戦争や社会混乱の時代にあっても友人たちと助け合って生き延びて、経済的には苦しくても好きな作曲は精力的に続けて、そしてそれを周りも応援してくれて。
人生の中で何よりも欲しいもの。“優しく穏やかで心温まる人間関係”は、もしかしたらシューベルトこそが一番持っていたように思えるのです。
今日、あなたのとなりには誰がいますか。そしてどんな音楽がそこにありますか。