天才的な芸術家が特異で一般の人と違った言動をしても、「天才は違うな〜」と許されてしまうことがありますね。どれだけ奇人かが天才の濃度を高めているような気さえします。要は変わっているほうがより天才、みたいな風潮ってあるじゃないですか。凡人には計り知れない脳みそがあるって、その行動が理解できない。だから天才だ、みたいな。音楽家にもそんな方は数多いらっしゃるのですが、作曲家界のトップオブ変人って誰かというと、これはもうダントツで「音楽界の異端児」の異名を持つエリック・サティです。
エリック・サティ
1866年 (0歳)
フランス・ノルマンディで生まれる
1872年(6歳)
母親が死去
1879年 (13歳)
パリ音楽院に入学
1886年 (20歳)
音楽院退学
1913年(27歳)
「干からびた胎児」作曲
1925年(59歳)
肝硬変のため59歳で死去
とにかく楽曲名が気持ち悪い
「干からびた胎児」「犬のためのぶよぶよとした前奏曲」「いつも片目を開けて眠るよく肥った猿の王様を目覚めさせる為のファンファーレ」などなど。およそ楽曲名とは思えないちょっと気持ち悪い題名の、美しくて一風変わった曲を数々生み出してきたエリック・サティは、1866年フランスで生まれました。父は海運業を営んでいて、音楽一家ではありません。6歳の時に母親が亡くなり、サティは祖父母に育てられます。幼い頃から教会のオルガンの音が好きで、熱心に聴いていたというのですから、生まれながらに音楽的な才能はあったのでしょう。
13歳ごろには名門中の名門、パリ音楽院に通うようになり本格的な音楽の道へ進んでいきます。しかしやっぱりそこは天才。この頃にはすでに変わり者の片鱗が現れていたようです。音楽院の授業はつまらないと公言してはばからず、先生方からは「最も怠惰な生徒」とされ、同じ学校に通う生徒たちからも「あいつはヤバすぎるから近寄らないほうがいい」と言われる始末です。しかしそんな風評も気にしないサティは、先生たちから「もう退学しろ」と言われるにも関わらず、なんだかんだ7年も在籍しています。本人、意外と学校が好きだったんじゃないでしょうか。天才の気持ちはわからないけども。
そうこうしているうちに大人になったサティは、ピアノ演奏で日銭を稼ぎながら作曲を続けます。その頃、サティ22歳の時に作ったのが有名なピアノ曲「ジムノペティ」です。楽曲名は知らずとも、曲に聞き覚えのある方も多いでしょう。日本ではCMやドラマで多用される有名楽曲のひとつです。
この「ジムノペティ」というタイトルもかなり怪しい意味合いがあります。フランス語Gymnopédieはギリシャ語が由来で、”Gymnos”「裸の」と”Paedia”「子供」を表す2語がくっついた”Gymnopaedia”を表すとされています。紀元前、スパルタの戦勝記念として裸の男児達が踊る祭りが催され、これがGymnopaediaの起源とされています。サティはどうやら、この男児裸踊り祭りの絵画をみて、この曲の着想を得たということです。さらにサティはこの楽譜に演奏上の注意書きとして「じっくりゆっくりと苦しみを持って」という言葉を加えています。ヤベーな、という心の声が表に出てきそうですね…。
口にするのは白い食べ物だけ
こうしたヤバめなタイトルを曲につけながら、新しい雰囲気の作曲をし始めていたサティは、この頃パリのモンマルトルに住んで、芸術家たちが集う有名なカフェ・シャノワールに通うようになります。そこで作家ジャン・コクトーや画家パブロ・ピカソらと知り合います。シャノワールはショーをみせるための飲食店形態で、数多くの作品がここで生まれ、また画家たちも熱心にここを題材とした作品を生み出していました。こうした芸術にあふれた雰囲気の中でサティが作ったのが、有名な「あなたがほしい」です。うん、これはマトモな部類のタイトルで安心しますね。
当時のフランス文化の盛況ぶりとサティの年齢がばっちりはまって、作曲家としてサティは大きくなっていきます。同時期にパリで活躍した作曲家ドビュッシーやラヴェルにも大きく影響を与えていたことがわかっています。ドビュッシーも大概(過去記事参照)なので、変人同士気が合ったかのかもしれません。
サティの奇人ぶりは何も他者評価からだけでなく、実はサティ本人も自分のことを客観的に書き記していました。自分で書いたエッセイの中で、「私は白い食べ物だけしか食べません!」と言い切っているのです。
「ゆで卵、砂糖、おろした骨、白い水(ジエチルエーテル)で煮た鶏肉。また、果物に生えたカビ、米、カブ。また、樟脳入りの血ソーセージ、パスタ、白いチーズ、綿のサラダ、そしてある種の魚(皮なし)などである」
ゆで卵の中は黄色いし、血のソーセージも中は赤いけど、そこはまぁサティの中では表向き白ってことで許可されているのかもしれません。徹底して白が好きだったし、本人もそこにこだわっているというのはよくわかりますね。ジエチルエーテルで鶏肉を煮て大丈夫かはさておき。大好きなお菓子は、白いプリンかメレンゲ(泡立てた卵白を焼いたもの)だというのですから、半端ない意固地さがわかります。しかもタバコも大好きで、他人にもタバコを吸え、さもなければ他の人に吸われてしまうよと進言までしていたようです。自分の好きなものをわざわざおすすめするあたり、わりに他人思いなのですね。
ファッションにも執拗なこだわりが
偏屈で変人のサティはやっぱり服装についても同じで、ある時期にはベルベット生地のグレーのスーツをいつも着ていたので「ベルベット紳士」というあだ名が付いていました。その後、どうもそれに飽きたのか、高価なベルベットスーツを買えなくなったのか、真っ黒いジャケットと山高帽子、それにこうもり傘を持つ、というスタイルに変更しています。
いつも同じ色と形の服を着ているせいで、サティといえばこのスタイルと、現代の人も覚えているわけで。このあたり、服装にこだわっているのかいないのか、逆に判断に迷うところではありますが、グレーベルベットにせよ、黒ジャケット雨傘にせよ、毎日の服選びに迷わず、完璧にブランディングされて印象づけられるというところで、うん、のちのスティーブ・ジョブスと同じです。やっぱり天才奇才は同じ道をたどってしまうわけですね。
さらにはサティの死後、家からこうもり傘が100本以上見つかったというのですから、傘を持っていなければ必ず出先で買っていたのだと推測されます。そこまでこだわるなら忘れるな、すぐ思い出して取りに帰れよと思わなくもないですが、天才の頭の中は凡人にはわかりかねますね。
死後の自宅で見た異様な光景
そんなサティだからこそ、作曲でも自分のスタイルを貫き、従来のクラシック音楽の形式に当てはまらずに創作を続けていきます。あのドビュッシーでさえもサティに向かって、「もうちょい形式を大事に作曲してみたらどうか」と言っていたようです。変人が奇人に助言しているのを想像するだけで面白すぎますが、こうしてフランスで全く新しい音楽が花開いていったのですから、どんなに素敵な時代だったことでしょう。
サティはアルコールの悪影響からくる肝硬変で体調を崩し、59歳でこの世を去ります。ジエチルエーテルで煮た鶏肉の食べ過ぎなのか、ワインの飲みすぎでしょう。サティの死後、弟と親しい友人たちが部屋を片付けに入った際の逸話がこれまた常軌を逸脱しています。
2台あるグランドピアノがなんと縦に積み重ねられていて、まるで2段ベッドのような状況になっていたというのです。そのうちの一台の中には、未開封の手紙などがぎっしりつまっていて、もう一台には何もなく空っぽ。床板やカーペットが見えないほど、わけのわからない紙切れや手紙、葉書が散乱していて、その異様さに弟たちは一言も発することができなかったというのです。片付けられないのもまた、天才のよくあるエピソードですよね。片付けられなくて、大家に追い出されて60回以上も引っ越しを余儀なくされたベートーヴェンのことを思い出させます。
そんなこんなで、サティの奇人変人っぷりをご紹介しようとしたら、ドビュッシーは出てくるわ、ベートーヴェンに似てると思い出すわで、クラシック音楽作曲家界隈の人材の豊富さに改めて感心したところで、2024年が生誕200年を迎えるブルックナーに、次回を譲りたいと思います。こっちもこっちで大概なのでどうぞお楽しみに。