「美しく青きドナウ」で知られるヨハン・シュトラウス2世は、今も世界中を魅了する数々の名曲を残したワルツ王である。父ヨハン・シュトラウスの曲が打ち立てたワルツ文化をさらに発展させ、弟ヨーゼフも名曲を生み出す作曲家一族である。音楽の都ウィーンで毎年新年の幕開けとして知られるウィーン・フィルのニューイヤーコンサートでは、このシュトラウスファミリーの曲が必ず演奏される。しかし、傍目には優雅で絢爛豪華な舞踏会の主役であったこの父子作曲家には、実は家族の壮絶な争いがあった。
ヨハン・シュトラウス2世
1825年 (0歳)
ウィーン郊外で生まれる
1830年 (6歳)
最初のワルツを作曲
1832年 (8歳)
近所の子供達にピアノを教えてお小遣いを稼ぎ始める
1842年 (16歳)
技師学校を退学し音楽を専門に勉強し始める
1844年 (18歳)
指揮者兼ヴァイオリニスト兼作曲家としてデビュー
1849年 (23歳)
父ヨハン・シュトラウス死去
1850年 (24歳)
過労により弟ヨーゼフを代役に立てる
1972年 (46歳)
アメリカで演奏者2万人観客10万人のコンサートに招聘される
1899年 (73歳)
肺炎により死去
天才だけど、浮気性で暴君な父親
ワルツはオーストリアで生まれた、男女がペアで踊る三拍子のダンス曲である。元々は大衆的な踊りであったが、19世紀ごろに急速に発展し、貴族を中心とした社交的舞踏会の花形となる。それを担っていた作曲家の一人がヨハン・シュトラウス(父)である。父シュトラウスは大衆文化であったワルツを芸術的に発展させ、その楽曲は市中に流行しワルツ文化が広まった。父シュトラウスは自らの曲でヴァイオリンを弾きながら指揮をし、オーケストラに演奏させる形態で人気を博した。このオーケストラ自体も父シュトラウスが運営を担い、ウィーン中でコンサートを開き、舞踏会に音楽を添えていた。父シュトラウスは優れた音楽家であり、また実業家としても十分な才能を持っていたようだ。代表曲のひとつ「ラデツキー行進曲」は、今でもウィーン・フィルのニューイヤーコンサートで必ず演奏される名曲である。
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父ヨハン・シュトラウスの肖像画
そんな売れっ子作曲家父シュトラウスは、やっぱりというべきか、案の定というか、女性にだらしなく、息子のシュトラウス2世がまだ幼い頃に、愛人の家に入り浸るようになる。家にお金も入れず好き勝手する父シュトラウス。妻でありシュトラウス2世の母はその仕打ちに苦しみながら、必死に子供達を育てていた。しかも帰ってこない割に父シュトラウスは子供の教育にも暴君的な行いまでする。息子シュトラウス2世は早くからピアノの才能もあり、音楽に興味を示していたにも関わらず、絶対に音楽家には成らせないと父親であるシュトラウスは様々に妨害をしていたようだ。 はじめは親心として、自分と同じ音楽家になる苦労を自分の息子にさせたくないという愛情もあったかもしれない。だが、本人が自分でアルバイト的収入を貯めて、やっと買ったヴァイオリンを目の前で叩き割るなど、およそ子を思う父親の所業とは思えない仕打ちをした。可哀想に思った母親は、なんとか工面したお金でもう一度、息子にヴァイオリンを買い与えた。トーチャンは愛人にはお金使うけど、妻子は食うにも困ってる上に、夢も叩き割るとか、鬼の所業である。呑気にワルツ作ってる場合じゃない。
母のサポートで音楽家として大成
そんな苦労の中で、シュトラウス2世は自力で音楽教育を受けられるよう先生を探し、必死で音楽に食らい付いていく。そしてとうとう技術学校も辞めて、16歳で音楽の道に専念するようになった。シュトラウス2世にはやはり才能もあったようで、スポンジのごとく音楽理論を吸収し、華々しくウィーンの音楽会でデビューした。この時わずかまだ18歳である。
当時の社会では18歳はまだ未成年であり、仕事を公にしていくことが認められなかった。そこでシュトラウス2世青年は、就労許可を得るため役所に直談判をしにいく。父親からの経済的支援もなく、弟たちが勉強にも食べるにも困っているんだ、自分が働かなければならないのだ、それも今すぐに、と訴えた。この若者の勢いに根負けした役人もついに演奏会の開催を許可したのだった。
一方、人でなしのトーチャンはやっぱり息子の邪魔をしていて、息子が音楽を習い始めたころも、その先生が自分のオーケストラ団員であることがわかると、その団員を解雇したり、息子が新しい楽団を作ろうとすればその都度妨害をしたりした。新聞記者には息子の音楽を批判させ、演奏会場には圧力をかけて息子を出させないようにまでする。やりすぎである。 しかし息子シュトラウスはそれに負けず、必死で若い新しい演奏家を発掘し、オーケストラを作る。この流れの中で、母親はずっと息子の味方をしてきた。当たり前だ。愛人のところから帰ってこない、お金も入れないどうしようもない亭主よりも、息子の夢が大事だ。
母マリア・アンナの肖像画
しかもその夫を凌ぐ才能もありそうである。息子がダメ亭主と同じ土俵で大成すれば、気分も晴れようものである。こういう時の女の胆力を男性諸氏は見くびってはならない。どんなことをしても息子を応援し、立派に育てようとする。どんなに辛くても。これは女の意地なのだ。事実、この息子シュトラウスが音楽家としてデビューしたのち、母親は離婚の決意をする。勝ち負けではないが勝ったのは妻のほうだ。溜飲が下がるとはこのことである。
家族のねじれた愛がワルツ文化を盛り上げた
こうして作曲家兼ヴァイオリニスト兼指揮者としてデビューしたシュトラウス2世は、苦労した分、処世術に長けており、情勢を見ながらその都度売れそうな曲を提供し、誰の風下にいるべきかを判断していたようだ。父と同じようにヴァイオリンを弾きながらオーケストラを指揮し、優雅で煌びやかなワルツやポルカを提供する。もはや寝る間もないほど忙しく、夜会服が普段着の有様。過労が祟ってやっぱり体を壊して寝込んでしまう。そんな時に、代役を担ったのが弟のヨーゼフ・シュトラウスである。
彼は音楽の才能がありながらもエンジニアとして身を立てており、父や兄とは違う生き方をしようとしたはずなのに、倒れた兄の代わりにと母親に懇願されて受け入れてしまう。彼も結局はこの家族の大きなうねりに飲まれ、また民衆を虜にする楽曲が作れてしまい、この世界に入り込んでいくのだ。さらにもう二人下の弟、エドゥアルトまで兄に引っ張り上げられて音楽の道に進む。
こうして息子たちがウィーン音楽で華々しく忙しく活躍している間に、父シュトラウスもかの有名な「ラデツキー行進曲」を作ったりはしたものの、愛人が産んだ子供がかかった流行病に自分も感染し、45歳であっけなくこの世を去ってしまったのだった。ただ愛人とはいえ、この二人の間には8人の子供が、そして本妻であったシュトラウス2世の母との間には6人の子供をもうけていた。父シュトラウスがいなければ、その息子たち、また孫によってウィーンのワルツ文化はここまで発展しなかったのではないかとも言われているのだ。
父子の確執の中で大成したシュトラウス2世の、その異常なまでの働きぶりは、裏を返せば父親へのねじれた慕情かも知れず、またそれを後押しした母親の意地は、築けなかった夫婦の強い関係性に対するやり場のない怒りだったのかもしれない。いつの世も家族のねじれた愛には、強いエネルギーがある。
母子の父シュトラウスへの思いの強さが、別の形で音楽として昇華されたのであったとしたら、今に残るワルツの数々が、少し悲しくも聞こえるのではないか。 シュトラウス2世の残した名曲で、第二の国家として今もオーストリアで大切に演奏され続けている「青く美しきドナウ」は、世界的なパンデミックの最中に作られた曲である。少しの間、ワルツでも踊って前を向いていきましょうと。何が何を妨害しようとも、ワルツでも踊って少し前向きに頑張りましょう。シュトラウス2世はきっとそう言っている。
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