クラシック音楽に興味がなくても、「ロッシーニ」の名前は見たことがあるかもしれない。おそらくフレンチのメニューで。牛フィレステーキにソテーしたフォアグラとトリュフ。贅沢を極めたあの料理、実は作曲家ロッシーニの考案なのだ。
男の子の頭の上に乗せたりんごを弓矢で撃ち抜く画像で印象的なオペラ『ウィリアム・テル』の作曲をしたロッシーニ。大ヒットオペラを数多く生み出したイタリアの巨匠は、実はさっさと作曲をやめて美食活動に走り、レストラン経営と投資に長けたビジネスマンでもあった。
「トリュフ探す豚を飼育するから俺、作曲辞めるわ」と簡単に言えてしまうロッシーニのそのビジネスセンスから、現代でも豊かな人生を送るヒントが得られそうだ。
1792年 (0歳)
イタリア・ペーザロに生まれる。
1810年 (18歳)
オペラ・ファルサ『結婚手形』を初演。オペラ作曲家としてデビュー。
1812年 (20歳)
ブッファ『試金石』をスカラ座で初演が大ヒット。
1816年 (24歳)
オペラ『セビリアの理髪師』を2週間で作曲。
1822年 (30歳)
歌手のイザベラと結婚。
1829年 (37歳)
最後のオペラ『ウィリアム・テル』を発表後オペラ作家引退。
1846年 (54歳)
オランプと再婚。
1855年 (63歳)
パリにて著名人を集めたサロンや高級レストランを経営。
1868年 (76歳)
死去
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好奇心と探究心に満ちたアグレッシブなキャラクター
ウィーンでモーツァルトが亡くなった翌年、イタリアで次なる巨匠ロッシーニは誕生する。父親はホルン奏者で母親は歌手という音楽一家で生まれたロッシーニ少年は、早くから音楽の才能を発揮し、18歳でオペラ作曲家としてデビューを飾る。20歳の時には一流のオペラ劇場であるスカラ座でヒット作を出し、兵役まで免除されるほどの名声を得た。苦労の下積み時代を送る作曲家が多い中で、この早咲きで早売れのロッシーニは稀有な存在と言えるだろう。
さらに、この頃のイタリアでは、今でいう音楽著作権ビジネス、つまり、作曲家が演奏されるごとに収入を得られる(一種の印税)制度ができ始めており、ロッシーニは20歳そこそこで、かなりの収入があった。少し前のモーツァルトやベートーヴェンの頃は、曲ができたら売り切ってしまい、作曲家にはワンタイムの収益しかなかったことを思うと、なんかいい感じの時代にロッシーニは現れたわけである。
小さな頃からロッシーニはなかなか魅力的な少年で、いくつもの恋の話が残っている。美しい女性を見つける才能と美味しいものを我慢できない性格は生来のものだったようで、7歳の時には、教会のミサで使うワインをすっかり飲んでしまったこともある。またトリュフを生で初めて食べたのもロッシーニだと言われており、好奇心と探究心に満ちたアグレッシブなキャラクターだったよう。
30歳の頃のジョアキーノ・ロッシーニ肖像画
ロッシーニのこの性格と経験は、機知とユーモアに富んだオペラに反映された。陽気で軽快、明るい太陽を思わせる大衆人気のロッシーニのイタリアオペラは、『セビリアの理髪師』を筆頭に、見て楽しく、聞いて嬉しい、ハッピーオペラである。一方その軽快さが、重厚な趣のあるドイツオペラと比較され、「で?どっちがいい?」という芸術論争をヨーロッパ中に巻き起こすこととなった。楽しそうである。
ある時ロッシーニがパリに出向いた際には、フランスの小説家スタンダールに「ナポレオンは死んだが別の男が現れた」と言わしめ、そのフィーバーぶりが今に伝わっている。
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セルフブランディングに長けた名プロデューサー
さて、そんないい感じの楽しいオペラを作りまくるロッシーニであるが、超売れっ子作家であるがために、一作品にそれほど時間を使えるわけではなかった。前述の『セビリアの理髪師』はなんと2週間で書き上げていたし、『泥棒かささぎ』序曲は舞台初日に完成というとんでもないスケジュールで進行していた。オペラ作曲は歌の部分だけではく、オーケストラの楽器全部のパートも作曲家本人が作り上げるわけで、今でいうアレンジャーにメロディとコードを渡したら曲ができてくる音楽制作とは大違い。大変な作業量である。
ここにロッシーニのもうひとつの才能が垣間見える。時間のない中でなんとかするために、ロッシーニは自分が作った別の曲のメロディをオペラ作品に紛れ込ませて使い回す。結果、それでは似たような楽曲になるわけだが、これがかえって「ロッシーニっぽい雰囲気」を大衆に印象つけることになる。しかも次々に新作がでてくるので、ファンを飽きさせず、離さない。これは今の音楽ビジネスと同じ考え方、ファンとのエンゲージ構築である。次々新曲を発表しながら、作風と曲の雰囲気を踏襲していき、常に流行を察知して軌道修正をしながら作り替えていく。ロッシーニオペラの新作は一年間に3、4作品。ファンを待たせず飽きさせないのだ。
さらに作曲家として人気絶頂の30歳の頃には、ナポリの劇場付きのトップ歌手であるイザベラと結婚する。彼女に対して結婚前から年間2作品を作って出演させ、夫婦双方で稼げる状況を作り出していく。すばらしい連携である(松任谷夫妻をちょっと思い出す)。作る、歌う、次々と稼ぐネタを積み上げる。同時期にオペラを作っていたワーグナーが貧困にあえいでロッシーニを羨ましがっていたほどだ。それほど成功をしていたということになる。こうした側面を見るとロッシーニは単なる作曲家ではなく、セルフブランディングに長けた名プロデューサーとも言える。すごい。
オペラで稼いだ資金を元に、新規事業をはじめる
そんなロッシーニ。若干37歳、作曲家人生20年程度にして、突如「俺、もうオペラ作るの辞める」と言って隠居に入ってしまう。『ウィリアム・テル』を最後に。
このあたりがますますロッシーニのプロデュース力を見せつけられる気がしてならない。クラシックの音楽家は生涯作曲を続けていく人が多いが、ロッシーニはそうしなかった。表向きはトリュフ食べたいということにしたかもしれないが、彼は名プロデューサーだ。前述のとおりロッシーニは作り替えを含めた量産体制をとり、世相と流行を見ながら大衆を扇動してきた、いわば流行作曲家である。これはいつまでも続かないであろうというマーケット予想、そして何より、自分の作風は次の時代の要求と合わなくなってきているのではないかと敏感に察知していたからではないか。さらには、すでに印税で稼いでくれる過去の作品も積み上がっている。いつまでも新作を出し続けなくても、勝手に稼いでくれる資産もできたタイミングでもあるのだ。
ロッシーニをひとつの会社と考えた場合、一事業であるオペラだけに注力するのではなく、新規事業案を練るべきタイミングであったとビジネスライクに判断したということではなかったか。事実、ロッシーニはこの後、オペラで稼いできた資金を元に株や債券に投資し、不動産ビジネスも行った。また楽譜の出版権やオペラの再演料などを交渉し続け、既存資産の活用も積極的に行なっている。美味しいもの食べてばっかりいるわけではないのだ。ロッシーニ、素敵。
こうした経営手腕によってさらに経済的な自由を得たロッシーニは、パリで自分の思うままに好きなことを楽しんだ。その一つが美食と音楽を融合させた土曜夜のサロン運営である。
ヨーロッパ中から集めてきた美味しいワインや食材を研究し、美味しい食べ方を考え、自分自身で料理する。太めのマカロニにフォアグラとトリュフ、ハムのソースを詰めたロッシーニマカロニや、ウ・ブルイエ・ロッシーニ(ロッシーニ風いり卵のフォアグラ添え)、プラルド・ロッシーニ(ロッシーニ風鶏肉のフォアグラ詰め)など、今もフレンチのレシピとして残る数多くの、そしてどれもこれも少々カロリー高めの料理をこのサロンで提供していた。
フォアグラとトリュフを贅沢に組み合わせた、通称「ロッシーニ風」はロッシーニが考案した料理。
このサロンに招かれるの面々も相当なクラス感だった。当時きっての作曲家でピアニストのリスト、パリ音楽界の重鎮であるサン=サーンス、同じオペラ作家の売れっ子ヴェルディも、さらには女流作曲家でピアニストのクララ・シューマンまで集っていたという。そこでさらにロッシーニ自身がピアノを弾き、オペラ作るのやめたと言いつつも、『ロマンチックなひき肉』やら、『やれやれ、小さなグリンピースちゃん』などとユーモアに満ちた曲を作って自分で弾いて客に聴かせたり、さらにはそこにいた一流音楽家が演奏しちゃったりする有様である。ゴージャス。
今で例えると、松任谷正隆が自宅で高級料理を振る舞いつつ自作品を歌い、そこに細野晴臣が伴奏して、矢野顕子までピアノで参加しちゃって、時々星野源がギター弾いているようなものである。たぶん。
そんなロッシーニ、自分の作品が褒められるとこう言う。「自分の曲なんてハイドンやモーツァルトに比べたら、気の抜けたビールみたいなものですよ」と。
ロッシーニのこの謙虚さは、一時代を築いた才能への自信と経済的な余裕、そしてきっと一流の音楽家と美食に囲まれた心の豊かさから生まれ出てきたものに違いない。コミュ障や気難しい面々の多いクラシック音楽の作曲家層において一際輝く人物像である。
美味しいもの食べながら、大きくなった体で不敵な笑みをこぼす73歳時のポートレイト。実に幸せそうである。 さて我々も、ロッシーニほどにはなかなかなれないにしても、ともに美味しいものを食べ、素晴らしい音楽を聞き、豊かな時間を過ごしたいものだ。今夜は私も、ロッシーニの素敵なオペラをトリュフ風味のポテチでも合わせて聞くことにしましょう。