「人は1日6万回、考え事をする」。
先日ネットサーフィンをしていたら、そんな記事が目に飛び込んできた。
あくまで一説なのだろうが、その数を見たとき、私の脳裏をよぎったのは「そんな大袈裟な」という否定の言葉ではなく、「そんなことある?」という疑問の言葉でもなく、「それもあり得るよな」という納得の一言だった。
そう思うようになった、きっかけがある。
私は今から5年ほど前、29歳のときに、脳内に押し寄せる大量のネガティブ思考に囚われるあまり、足が一歩も動かなくなったことがあるのだ。「動かなくなった」というのは比喩ではなくて、本当に動かなくなった。
当時、営業職として忙しなく働いていた私は、「どうしたら目標売上が達成ができるか」という焦りや不安で、常に脳内が占拠されていた。
仕事でミスをした日や、取引先から厳しい指摘を受けた日は常にこんな声が脳内に響き渡った。
「やばい。どうしよう!?」
こうした心の声は自分自身を蝕み、静まることを知らない。その後も思考に囚われる日々は続き、ある日、取引先に向かう駅のホームで心労が祟り、足が進まなくなり結局、勤めていた会社は辞めてしまった。
「ふざけんな。何も変わらねぇじゃん」
「意味がない」ことを実証してやる!
しかし、泣いても喚いても現実は変わらない。
30代突入を目前に控え、フリーランスのライターに転身した私はいよいよ収入を得て生きていくため、「マイナス思考な自分を変える」という選択を突きつけられた気がした。
「瞑想」という言葉を知ったのはそのころで、思考に囚われて疲れ果てていた私に知人が
「1日15分でいいからやってみな。心が整うよ」
とアドバイスをくれたことがあった。ひとまず半信半疑で、毎朝の起床後、癒し系音楽を流して目を瞑ってみるも煩悩が浮かびまくる。
ふざけんな。何も変わらねぇじゃん。
そう思った私は、それでもなぜか異常なる執念で、「瞑想らしきもの」を毎朝続けた。もはや、「続けても意味がない」ということを身をもって実証するために、躍起になっていたのかもしれない。
相変わらず「煩悩まみれ」
でも見えてきた変化の兆し
その後、あろうことに心境に変化がおとずれた。1年が経過したころから、なんとなく気持ちが前を向けるようになったのである。
むろん、それだけで奇跡は起きない。当時フリーランスライターとは名ばかりで、仕事がなくほぼ無職であった私にとって、経済的にも精神的にも不安は容赦なく降りかかる。しかし、面倒でも続けていくことで前日までに起きた辛い出来事をいくらか客観的に見られるようになった。
毎朝の瞑想がルーティンになると、午前中の仕事の集中力が格段に上がった。
時間に余裕が生まれると、部屋の掃除と、昼食の中身を意識するようになる。
生活空間と食べ物に気を遣うようになると、今度は食後に運動したい気持ちが芽生え、見た目も気にするようになった。
瞑想→整理整頓→食事→体力作り→外見磨き
これらを順番に変えていくことで、あるときから、私はゆるやかに元気を取り戻した。むろん「悟り」の領域にはほど遠く、変わらず煩悩まみれではある。それでもネガティブ思考に陥っても早めに気分を切り替えられるようになったのは、大きな収穫であった。
ウェルネス文化の先駆け、
東京・茗荷谷の林泉寺の門を叩く
瞑想歴が4年を越えた今、今度は調子に乗って「坐禅」にも挑戦してみたい。
現時点では2つの違いさえよく分かっていないが、瞑想と坐禅のどちらも使いこなせば、私は常に自分のメンタルをコントロールできる無双状態になれるのではないか。
そんなヨコシマな願望から今回、東京・茗荷谷の林泉寺さんを訪れた。
何でもこのお寺は曹洞宗に属しており、1984(昭和59)年から40年近く坐禅教室を営んでいるらしい。
「都内の禅の発祥地」として国内外に知られ、慶長7年の建立以来、大岡政談や銭形平次にも登場するという由緒正しいお寺である。多くの参拝客や海外観光客が訪れるというこの地は、まさに「ウェルネス文化の先駆け」と言っても良いだろう。
今回、私に坐禅を教えてくれたのは副住職・江田真大師である。奇しくも江田さんは、私と同じ34歳だった。
「いくら同い年でも、かたや煩悩まみれのフリーランスライターで、かたやお寺で坐禅を教える住職さんだなんて」
そんな卑下が頭をもたげる。しかし彼は、慈悲深い微笑みを浮かべると、私の荒んだ心を見透かしたように言った。
「最初に申し上げます。曹洞宗では、坐禅をすることに目的を持つことは認められておりません。『見返りを求めず、ただ坐りなさい』と言われても難しいかもしれません。
それでも出来るだけ、あらゆる欲望を捨て去っていく。今日はその点を意識していただければ幸いです」
一抹の不安で息を呑む私。行動に見返りを求めないなんて、はたして出来るのだろうか。
また、瞑想と坐禅の違いについて尋ねると、彼は「私は瞑想の専門家ではないので、詳しくは分かりませんが」とことわりを入れてから言う。
「瞑想というのは、目的をもって行う場合もあるかと思います。しかし、先ほども申し上げた通り、禅は『何かを得たい』という感情を一切捨てる行為なんです。
ですから、近いようで、対極にあるものだというふうにも私は捉えております。
人間が日々の生活で感じる『好き嫌い』『不味い美味い』『善や悪』といった正解のない感情を一旦捨て、自分の心の変化に目を向けていく。
そして、すでに今あるものに感謝をしていく。それが『禅』というものの考え方です」
分かりやすい説明をして下さり、気がつけば夢中でお話を聞いてしまう。江田さんの優しい声音は、つい耳を傾けてしまう不思議な魅力があった。
兎にも角にも「思考を捨てる」という行為がどのようなものか体験すべく、さっそく支度を始めることになった。
心と身体はひとつ。
調身・調息・調心を心得る
いくつが重要なポイントがあると江田さんは言う。
「多くの人が、緊張すると無意識に行なっていることがあります。それが、深呼吸です。
オリンピックのような大会でも、本番直前の選手の方がテレビ画面に映ると、深呼吸をしていることが多いですよね。
また、深呼吸も大事ですが、その前にもうひとつ人間が、無意識に行なっていることがあります。何か分かりますか?」
私が考えあぐねていると、彼は言った。
「それは、背筋を正すことです。深呼吸をしようとすると、必然的に一度、正しい姿勢になる必要があります。猫背ですと、上手に呼吸できませんから。
ですから、座布(ざふ)に座るときは両膝とお尻の三点でしっかり体重を支え、正しい姿勢を意識しましょう。
形を整えておけば、いつでも呼吸を整えることができる。呼吸を整えておけば、心が静まる。そのような流れになります。
この考えを仏教では、調身(ちょうしん)、調息(ちょうそく)、調心(ちょうしん)と呼びます」
「心と身体はひとつ」という仏教の考え方は、実に興味深い。
なお、身体が硬く長時間の胡座の姿勢が辛い方は、椅子に座って坐禅を行っても良いそうだ。
警策は挙手制?!
坐禅を始める7つのステップ
その後、坐禅前の準備運動を教えていただく。
(※自宅で行う場合も、以下7ステップの手順を踏むことをオススメする)
①座布の上にあぐらをかき、両手の平を上に向け、両膝に置く
②体勢を維持しながら、振り子になったイメージで身体を左右にゆっくりと揺らす
③揺れを少しずつ小さくして、動きを止めた後で今度は前後に揺らす
④ゆっくりと身体を揺らし、自分の身体の中心を探ったら、今度は右手のひらを上に向けて、へその下に置く
⑤右手の上に左手を乗せ、親指同士を軽く合わせる。両手が楕円形になればOK。この形を「法界定印(ほっかいじょういん)」と呼ぶ
⑥背筋を伸ばして呼吸に入る。まず口から大きく息を吸い、大きく吐き出す
⑦口呼吸を2〜3度続け、気持ちが落ち着いたら、そこから鼻呼吸に切り替えて同じように2〜3度呼吸を繰り返す
基本的には、これで完了である。
目線は顔を正面に向けて、半畳先を見つめるイメージで「半眼(はんがん)」を意識する。
なお、坐禅道場で行うときは、集中が切れると警策(きょうさく)と呼ばれる棒で叩くことがあるが、林泉寺では体験者から求められない限り一方的に叩くことはないとのことで安心だ。
もしも「叩いてほしい」と思った場合は、坐禅の最中に合掌し、境内を巡回する江田さんに向かって合図を送れば叩いてもらえるという。
まぁ、私から警策をお願いすることはないだろう。叩かれるの、嫌だし。
そのときは、そう思っていた。まさか後々、その選択が覆るとも知らずに……。
脳内は不安と羞恥心と恐怖…
煩悩を振り払う、優しすぎる一撃!
本来、1回の座禅につき1時間実施するというが、今回は時間の都合で短縮版に挑戦することなった。
最初は、「ぶっちゃけ余裕だろうな。何なら自宅で15分、毎朝瞑想してるし」と思った。
開始を告げる鐘が鳴り、さっそくスタート。
しかし、始まった瞬間、すぐに心が折れた。こんなときに限って、髪の毛先が頬の周りに当たりムズ痒いのである。しかも仕事で1件、プライベートで1件、LINEを返せていないことを唐突に思い出す。
何も今思い出さなくてもいい。
自分に対して怒りが込み上げる。
追い討ちをかけるようにして、空腹が到来。「グォォォォ」と落雷のようにけたたましい腹の音が場内に鳴り響き、羞恥心のあまり消えたくなる。早くもギブアップしたいが、 たった数分間で離脱するわけにはいかない。
気分転換を図るべく目の前の壁に視線を移すが、その壁の白さを前に一気に煩悩が広がっていく。
体感5分が過ぎたころ、お手上げ状態になった私は、あろうことか自ら警策を打ってもらえるよう江田さんにお願いしていた。
合掌後、右肩にゆっくりと警策が乗せられる。
「痛かったらどうしよう」
その不安がピークに達した瞬間……
パーンッ!!!
大きな音が坐禅場に鳴り響いた。その瞬間、私の脳内は不安と羞恥心と恐怖で思考が停止した。もはや坐禅どころではない。
一刻も早く家に帰りたい。そう思った。
しかし次の瞬間、再び不思議な感覚に陥る。不思議なことに、まったく痛みを感じないのだ。叩く音こそ派手だが、ただポンッと軽く叩かれたかのごとく、無痛なのである。
めっちゃ手加減してくれている。
「ちゃんと心を正面に向けなさい」と、優しくも厳しい喝を江田さんからいただいた気がした。
そこからは心の中がスッと静まり、顔の痒みも忘れ、LINEも忘れ、最終的に「あれ、ここはどこだっけ?」状態になり、あらゆる思考が心の深淵に消えていった。
「ありのままの自分の感情」に気づき
認めて、向き合っていく
あっという間に終了の鐘が鳴る。
終わってすぐ、江田さんに
「私、坐禅を勘違いしていたようです。短い時間、ボーッと坐ることくらい楽勝だろうと思ったけど無理でした。でも、不思議なことに終わって見ると、頭の中がスッキリしています」
と興奮のあまり早口で伝えると、彼は再び慈愛に満ちた表情で言った。
「それは良かったです。私自身も未だに坐禅の最中、いろいろな考えを思い浮かべてしまいますよ。しかし、何より大切なのは、そうした自分も受け入れること。
そして、たった一度坐禅をしただけで何かを解決しようとするのではなく、禅の精神を日常生活にも落とし込むこと。その2つではないでしょうか?」
その言葉を聞き、ハッとした。
当初、私は坐禅体験により「何か得たい」という欲に満ちあふれて挑戦した。しかし、一朝一夕で禅の大切な教えを学ぶことは、そもそも不可能なのである。
それでも「ありのままの自分の感情」に気づき、認めて、向き合っていくこと。それこそが、禅という概念そのものなのだろう。そのことに気づけただけで有意義な発見だった。
副住職も元は「普通の若者」だった
彼の笑顔の裏にある厳しい修行
ちなみに、私から見れば聖人君子のように見える江田さんも、「学生時代は、不真面目だった」と自らの人生を苦笑して振り返る。
大学の仏教学部で禅を学ぶも、当時の彼には禅の真髄が分からず、いわゆる普通の若者と同じように青春を謳歌して過ごしていたらしい。
ところが卒業後、坐禅道場で厳しい修行を重ね、睡眠と食事をするとき以外、1日16時間以上にわたり禅を繰り返すうちに、考えが変わっていったという。
「私自身も、悟りの領域にはほど遠いですよ〜」
きれいなお顔立ちではにかむ姿は、今日初めて見た江田さんのチャーミングな一面である。彼の笑顔の裏側に私と同じような時代があり、そこから「気づき」を得て今の役職に就かれているというヒストリーにも胸が熱くなった。
体験前と体験後では「心の軽さ」が異なることに気づいた、初めての坐禅体験。この感覚が少しでも続くように、引き続き私は、積極的に行っていきたいと強く思う。読者の皆様にも一度、ぜひ経験してみてほしい。