博多駅から門司方面へ、電車に揺られること40分。JR水巻駅に着いた。水巻駅への電車は1時間に2本のみ。福岡県遠賀郡水巻町、稲作発祥の地といわれる長閑なこの街に、国内外から注目を集めるダンサー兼コレオグラファー(振付師)がいる。yurinasia(ユリナジア)さんだ。
TENDREやVaundyをはじめとするアーティストのMV出演や、テレビ番組、大手企業CMにコレオグラファーとして参加。インスタグラムのフォロワー数は8万人(2024年2月現在)を超える。yurinasiaさんはどんな道を歩み、なぜ今、水巻町で踊り続けているのだろうか? 彼女のこれまでの軌跡をたどる。
稀人No.007
ダンサー・yurinasia(ユリナジア)
福岡県出身在住のダンサー・ダンスインストラクター・コレオグラファー。⼆児の⺟。JAPAN DANCE DELIGHT vol.23 FINALIST他、数々の受賞歴を持つ。夫でブレイクダンサーのayumuguguと共に、dance spot jABBKLAB(ジャブクラブ)を主宰。TV ・MV・⼤⼿企業CMの出演や振り付け、全国各地でのワークショップやイベントにも出演。2023年よりNHK Eテレ「ゾンターク〜おどりのほし〜」にレギュラー出演中。監修も務めている。
Instagram:@yurinasia
HP:https://www.yurinasia.com/
父が教えてくれた「遊び」
yurinasiaさんは1992年、福岡県遠賀郡芦屋町に生まれた。音楽好きの両親と妹の4人家族で育った。家には、建築設計会社を営む父が作った音楽を聴く専用の部屋があった。部屋には、父お手製のオーディオが組み立てられ、ジャズ、ロック、ヒップホップからポップミュージック、ブルースと多様なジャンルのCDが並んでいた。
「スピーカー聴こうか」と父が声をかけると、家族みんなでオーディオの前に座り、音に耳を澄ました。BGMとしてではなく、音楽を集中して聴く時間が設けられていたのだ。キュイーンと部屋に鳴り響く、ヴァン・ヘイレンのギターの音が怖かったことを覚えているという。
じっくり音楽に聞き入るときもあれば、音に合わせて身体を揺らしワイワイと盛り上がる日もあった。yurinasiaさんは「その瞬間は、ああ、幸せだなあと感じていました」と懐かしそうに語ってくれた。
音楽好きの父が、熱を持って彼女に教えてくれたことがある。それは音楽のメロディラインについてではなく、音を聴くことで目の前にいるダンサーをイメージすることであった。
「そこに人がいるみたいに聴こえるでしょ?」と、父はよく尋ねたという。音楽を聴いたら人が見えたんですか? と尋ねると、「見えましたね。2歳の頃からずっと音を聴かせてもらってきたので」と、にっこり。
畳の上に段ボールを敷いて、LL BROTHERSを真似てダンスをしている父の姿をyurinasiaさんは見ていた。MC・ハマーやマイケル・ジャクソンのMVも父と一緒に観た。ランニングマンやロジャーラビット、ムーンウォークといった、昔ながらの踊りをyurinasiaさんに教えてくれたのも父だった。家のなかで音楽が流れると、料理をしている母も自然と身体を動かしているような風景が、家のなかにはあった。
取材に訪れた水巻駅前のスタジオ兼事務所にて。倉庫として使われていた部屋を改装した
生きづらさを感じていた小学生時代
幼いころ、母は自分の両親が営む会社の事務所で働いていた。母の職場について行っては、ひとりで絵を描いて過ごすことも多かったyurinasiaさんは、友だちと一緒に勉強したり、登下校するような小学校での集団生活に淡い憧れを抱いた。
小学校に入学すると、その憧れは徐々に消え去っていった。1年生のころは、友だちと一緒に過ごすことが楽しかった。ところが、2年生、3年生と学年が上がっていくにつれて、横並びの集団行動を強いられる環境に反発を覚え始めた。3年生になると人間関係が複雑になり、無視されたり、仲間外れのターゲットにもなった。
「生きるのが辛くて。小学3年生でこの状況だと、これから先の人生が長いな……と思っていました」
生きることに息苦しさを感じていた彼女を支えていたのは、遊びを教えてくれる父や、一緒に音楽を楽しむ家族の時間だった。yurinasiaさんは、父が会社の人たちと行くスノーボードについて行くのが楽しみだった。いろいろな大人に交じって、得意のスノーボードを披露して鼻高々だった。何をやってもみんなが褒めてくれるのも嬉しかった。
それなのに小学校では、廊下に一列に並び、みんなと一緒に行動することが求められた。「学校は、自分が本領を発揮できる場所じゃない」と思っていた。
「小学校に行くのは辛いけど、家族がいたから。学校はどうでもいいかって……。そつなくこなそうって思うことができたんです。あと、たまに学校である絵のコンクールが楽しみでした。絵を描くのが好きだったので。今でも動画制作のロゴは自分で描いています」
ゲームをコンプリートしていく感覚
中学生になると、好きなことや嫌いなことを自分で選び選択するようになった。好きな授業は受けるし、嫌いな授業は受けない。好きな先生の言うことは聞くし、嫌いな先生の言うことは聞かない。「今日の授業は面白くない」と思えば、家に帰った。父や母が怒ることはなかった。
yurinasiaさんが中学3年生の夏、なんの気なしに観ていたバラエティ番組に、ダンススクールの子どもたちが出ていた。ダンスコンテストの出場に向けて、奮闘する姿を密着取材したものだった。ダンスが習えるもので、コンテストのような発表の場があることを初めて知ったyurinasiaさんは、「私もダンスを習いたい」と母に相談。すぐに、近所の公民館で開かれていたダンススクールに通うことになった。
初めてダンスを習った日のことを、彼女は今でも、鮮明に覚えている。水巻町の公民館の2階。音楽が流れる部屋で、鏡に向かって先生の動きを真似てみると、不思議な感覚を覚えた。
「先生がやっていることが、全部できたんです。『え? 私、ダンス上手くない?』って。それまで自由にやっていた動きをひとつずつ習うことで、テトリスがハマるようにコンプリートしていく感じです。新しいゲームを買ってもらったときのような感覚でした。あとは、純粋にみんなと一緒に踊る『場』が楽しかったんです」
初心者には難しい「アイソレーション」と呼ばれる身体の一部分だけを切り離す動きも、意識することなくできた。それは、いつも家で真似していたマイケル・ジャクソンのMVの動きと同じだった。
「ダンスってすごいんです。スノーボードは得意だったけど、専用の場所や道具がいるから人に見せることができなかった。でもダンスは、この身ひとつあれば、自分のことを説明する必要もないんです。しかも、場所を選ばずに人に見てもらうことができる。ダンスと自分が一体となった瞬間に、自信が満ち溢れてきて。何をやっても、どこへ行ってもいいやって。すごく楽になったんです」
身ひとつで、自分を表現する術を見つけたyurinasiaさんは、それまで感じていた生きづらさから解放された。
プロ意識を育ててくれた「お仕事ごっこ」
ダンスを始めて3ヵ月、ダンスの師匠でもあるスクールの講師にインストラクターに抜擢された。yurinasiaさんは、当時の気持ちをこう語る。
「びっくりしたけど、よくぞ見つけてくれたという気持ちもありました。まだダンスを始めたばかりだったし、自分が大会に出て賞を獲りたいとも思っていました。でも15歳でインストラクターって、ブランドとしても強いと思ったので『絶対やります!』と引き受けました(笑)。ダンスの技術云々ではなく、ダンスを好きな気持ちが溢れていたんだと思います。jABBKLAB(自身のダンス教室)にもいるんです。技術より先に『ダンスが好き!』って想いで身体が動いちゃう子が……」
yurinasiaさんは、ダンスを始めたころから「将来はダンスを仕事にしたい」と考えていた。仕事を優先するため、融通が効く高校を選んで入学した。最初は、地域の祭りなどのイベントに参加しながら、本格的にインストラクターとしての活動を始めていった。当時「ゆっちょん」という名前で活動していた彼女は、アフロヘアーをお団子にまとめて制服を着ていた。「もう、ダンスで生きるしかない髪型をしていましたね」と笑う。
高校時代の印象的な出来事がある。自分でイチからイベントを企画して、生徒たちの発表会を開催した。資金は両親や師匠がサポートしてくれた。タイムスケジュールの組み立てや照明プランを作り、東京からゲストも呼んだ。発表する作品や衣装もすべて自分たちで作った。学校終わりにホールに集まり、準備を進めた。このダンスイベントには、600人が集まり大盛況で幕を閉じた。
「当時はお仕事ごっこをやっているような感じでした。今jABBKLABでやっていることも、当時から変わらないですね」とyurinasiaさん。yurinasiaさんはダンサーとして、コンテストやバトルで勝つことにもこだわりを持っていた。勝って名が売れることで、スクールにも注目が集まる。スクールが注目されれば、生徒たちの活躍の場を広げることができる。
「個とチームの両軸を回していくことで、生徒たちと一緒により高みを目指したい」。yurinasiaさんは、この気持ちを今も変わらず持ち続けている。
jABBKLABのレッスン風景。水巻町公民館にて
究極の「遊び」
2013年、yurinasiaさんが20歳のころ、師匠からダンススクールを受け継ぎ、自身がダンスを磨いてきた公民館で「jABBKLAB」をスタートした。翌年、ダンサーのayumugugu(アユムググ)さんと結婚し、彼もスクールを支えた。
自分のスクールを持ったyurinasiaさんは、「これまで見たことのないようなスクールを創りたい」と気持ちを奮い立たせた。スクール名の「jABBKLAB」は、音の響きや文字の印象で惹かれた「JAB」「CLUB」「LABO」を掛け合わせて生まれた。
「当時は『楽しく平和に』よりも『抜きん出てやる』という気持ちが強かったので、ジャブを打っていきたいとの想いも込めました」と語る。
yurinasiaさんファミリー
jABBKLABを設立したころ、彼女には明確なビジョンがあった。
「25歳くらいまでには、子どもが欲しい。30歳までにはダンサーとして活躍していたい。ダンサーだからどういう生き方をしなければならないという気持ちはなくて。ダンサーとしても、普通の人生も、両方やりたい。どっちも楽しみながら続けられる環境を作ってやってきました。子どものためにやりたいことを諦めるのは、子どもにめっちゃ失礼な気がするんです」
こう語る彼女は2015年に第1子を出産後も、家族の支えを得ながらダンスを続けてきた。しかし2017年に第2子が生まれると思うようなダンス活動ができなくなり、もどかしさを感じるようになっていた。
その頃、ayumuguguさんからInstagramでのダンスの動画配信を提案された。気軽にできる動画配信は、yurinasiaさんにとってダンス活動を示す、新たな楽しみの「場」となった。
もともと映像を創ることが好きだったayumuguguさんと、幼いころから絵や文字を描くことが得意だったyurinasiaさんは、映像制作にのめり込んだ。
服屋を営む生徒のお母さんにスタイリングしてもらい、服屋のロゴを作ってスポンサー風に仕上げた。ふたりがアイディアを出し合っていると、誰も会話に入ってこれないくらいにヒートアップした。
「夫とも話すんです。21歳で妊娠して子どもいたので、バカみたいに遊ぶことってぜんぜんできてないよねって。だから、今やっていることが遊びの延長なんです。この仕事は、『究極の遊び』だよねって話してます(笑)」
毎週金曜日、jABBKLABのレッスンの最後に行われる動画撮影
好きな音楽で好きに踊ればいい
2019年、Instagramへのダンス動画の投稿を始めると、1年も経たずして転機が訪れた。TENDREの曲で踊ったダンス動画に、本人をタグ付けしてInstagramに投稿した。すると本人からDMが届いた。メールには、「踊ってくれてありがとう。今度一緒に新曲のMVに出てくれたら嬉しい」との内容が書かれていた。
「発信した動画が本人に届いただけでも嬉しいのに、大舞台に立つきっかけを与えてくれたことに感動しました。私も人にきっかけを与えられる人にならなければと思ったんです」
初めてのMV撮影は、スムーズに進んだ。監督をはじめ、みんなでひとつの作品をつくる現場や撮影の醍醐味を味わったyurinasiaさんは、「これを機に絶対次に繋げたい」と強く思ったという。このTENDREの楽曲「SIGN」のMV出演を機に、業界のつながりができ、一気に仕事が広がっていった。
2020年春には、Vaundyの曲で踊る動画を観たセルヴィア人監督から、MV出演依頼がきた。yurinasiaさんやjABBKLABのメンバーが出演したVaundyの「不可幸力」は、世界的カルチャーサイトNownessのピックアップ作品として、海外へ先行配信された。福岡市東区で行われたMV撮影には、Vaundyをはじめ、セルヴィア人監督率いるフランス、イギリス、日本からのグローバルチームが集結した。
また、jABBKLABのレッスンが行われる水巻町の公民館には、海外から、見学やダンスレッスンを受けに来る人が後を絶たない。SNSに配信される、jABBKLABの動画を観て訪ねて来るという。
彼女たちのダンス動画には、ある特徴がある。それは、専門的なダンスミュージックではなく、耳馴染みのある曲に合わせて踊っていることだ。
「J-POPでもシティポップでもヒップホップでも、『好きな音楽で好きに踊ればいいじゃん』という感覚なんです。ダンスを習っていない人が観たときに『King Gnuで踊ってる! ダンスってこんな感じでいいんだ。型にハマらなくていいんだ』ってことを伝えたいです」
yurinasiaさんが、こう語る理由がある。本格的にダンスを学び始め、ワークショップやレッスンに参加すると、それまで抱いていた楽しいダンスのイメージとのギャップを感じた。礼儀や挨拶の大切さはわかっていた。それでも挨拶ひとつで叱責され、「結果を出さないと上にいけない」とけしかけられる環境は、小学生の頃に嫌だった集団行動を彷彿とさせた。
「ダンスの歴史を知れ、学べ。ダンサーは、これをやってはダメ……」と、昔ながらのダンスの固定観念を押し付けられているようで、怖さも覚えた。「ダンスって、やっちゃダメなことってあるの? 堅苦しいなって」。
ダンススクールの生徒や自分が関わる人たちには、「ダンスって怖い、難しいと思って欲しくない」と思った。古くからダンスにある固定観念を吹き飛ばしたいと思いついたのが、自分が好きな邦楽に振り付けをして踊ることであった。
「カラオケで歌ってる好きな曲で踊ればいいじゃんって思ったんです。お堅いダンサーから見ると、『バズるためにわかりやすい曲で踊ってるんだよね』と思うかもしれないけど。私たちの信念としては、『この曲で踊れる?』という挑戦状でもあるんです」
水巻町の公民館でつくり続ける
東京での仕事が増えてきた今も、yurinasiaさんは、家族とともに水巻町で暮らしている。地元を離れない理由について尋ねると、少し考えて、はっきりと言葉にした。
「家族がいる、というのはもちろん。水巻町には公民館があって、jABBKLABがある。そして、jABBKLABに通う生徒たちがいる。ここに暮らす理由は、シンプルにこれだなって最近思うんです」
小学校、中学校には馴染めなかった。中学3年生でダンスを学び始めた水巻町の公民館は、yurinasiaさんにとって、やっと見つけた居心地の良い場所なのだ。ニューヨーク、東京、大阪と、ダンスの本場といわれる所でのレッスンも受けてきた彼女は言う。
「大切なのは、『場所』じゃないと思ったんです。どこにいてもダサい人はダサいし、かっこいい人はかっこいい。仕事やメディアが東京に多いことはわかる。でも、東京にいるというだけでチャンスが増えるんだったら、それは不平等過ぎる。私はここで生まれたから、それは大事にしたい。今、動画配信をやっているのも、このメンバーでつくり出すものを観て、シビれる人がいるんじゃないかって。みんなでニヤニヤ企みながら楽しくやっています。『メイドイン水巻』です。ここで頑張るので、見ていてくださいーー」
yurinasiaさんは今日も、水巻町から世界に向けて、異彩を放ち続けている。
Photo by Jun Yokoyama
Photo by Jun Yokoyama
執筆
サオリス・ユーフラテス
1979年、佐賀生まれ、福岡市在住。19年の会社員生活を経て、2021年よりフリーライター。経営者インタビューや多様な生き方を取材・執筆。正しい道より楽しい道を。最短距離より寄り道を楽しみながら、旅の途中。
X(Twitter):@osiris76694340
編集、稀人ハンタースクール主催
川内イオ
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、イベントなどを行う。
Instagram:
@io.kawauchi
X:
@iokawauchi