2020年4月、日記の専門店としてオープンした「日記屋 月日」。コロナ禍で当たり前のことが当たり前ではなくなり、「これまでの生活を見つめ直している」という声を以前よりも聞くようになった。その手段のひとつとして注目されたのが、日記である。
下北沢にある「日記屋 月日」は、日記を書くための日記帳はもちろん、商業出版されたもの、絶版になったもの、個人のものなど、読むための日記本まで、さまざまな日記を揃えている日記専門店だ。店長・栗本凌太郎さんに、ウェルネスの観点から日記をつけること、読むことそれぞれの面白さ、生活との結びつきについて伺った。
日記をつける行為は、「誰かといっしょに居ることの健康」と似ている
──お客さんや周りの人から「日記をつけるようになってこんなことが変わった」と聞くことはありますか?
栗本さん:日記をつけるようになってから、自分のことを自分で認められるようになった、ということはよく聞く気がします。数か月、数年と日記を書き続けていると、気分の浮き沈みが見えるわけじゃないですか。そのときは「もう最悪だ」とか「苦しい」とか思っていたけど、全部並べてみたら、今と同じような時期があったことに気づける。それで、「こうやって悩んだり嬉しがったりしてるのが自分なんだ」って、少し引いた目線で自分を眺めることができるんですよね。そういうことがわかると、過剰に自分を攻撃することもなくなるんじゃないかな。
──私も日記をつけているのですが、日記をつけるようになると、自分でもわかっていなかった自分のことが見えるなと思いました。
栗本さん:日記をつけることは、「毎日違うことが起こっている」ことに気づく行為だと思いますね。同じ時間に起きて、同じ会社に行って、同じ時間に帰ってきて、と日々がルーティンに感じられるとしても、違う1日1日があることは確かで、 日記をつけているとそのことに気づける。大切な人が昨日も今日も笑顔だったとしてもそれが同じ笑顔ではないのと同じように、意外と昨日と今日って違う日だったな、と。
──お店をやっているなかで聞いた、印象に残っている言葉はありますか?
栗本さん:参加者みんなで並走して日記をつけるワークショップ「日記をつける三ヶ月」を行なったときに、ファシリテーターとして参加してくださった小説家の滝口悠生さんが言っていた言葉ですね。
日記のことにも言えるし、文章を書くこと全体にも言える話だったのですが、「何かを書くっていうのは、どうしてもその時・その場から離れたところで書くしかない。書いている地点から見ると、そこには居ない・ないもののことを書いている」と。
日記もそうで「今起こっている、思ってる」ことを書いたとしても、どんどん過去になっていくから「居ないもの」を書こうとしてるわけです。つまり、そういう過去にあった出来事とか会った人、場所を「今、目の前にあってほしい」「なくなってほしくない」と思う気持ちがあるということです。そのことを滝口さんが「それって祈ることみたいだよね」と話されていたのは、ずっと覚えていますね。
──書くことは、ないことを「なくなってほしくない」と思うこと。
栗本さん:日記本に、関東大震災のときの日記や戦時中の日記をもとにした本があるんですが、それらもきっと、このときに感じたことや見たことを「なかったこと」にしたくない、という気持ちがどこかであったんじゃないかなと思います。
栗本さん:『わたしは思い出す』は2011年の東日本大震災のときに日記をつけていた女性が、その当時の日記を読み返して思い出したことを編集の方が聞き書きした本です。日記そのものは書かれていないけれど、震災として大きな括りでまとめられてしまう当時の出来事も、日記を通してもっと細かい、一見どうでもいいような大切な過去を「なくなってほしくないこと」として残してくれるんだな、ということを直に感じさせてくれる一冊です。
そして、今日はお店にないのですが『金田八郎の戦争体験記』は、制作した方の、母方のおばあちゃんのお兄さんが戦争のときに書いていたことをまとめたもの。日記という形式だからこその生々しさがあり、読むと当時の著者の心境や戦争の異常さを目の当たりにしてしまいます。
──「あってほしい」気持ちを抱くということは、自分の生活や生きることを肯定することでもありますよね。それは今回の特集テーマの「ウェルネス」ともつながる話かもな、と。
栗本さん:続けることで、だんだんと心がいい状態になるみたいなことはあるかもしれない。たとえば名前のつくような病気だったら、病院に行って、お医者さんに診察してもらって薬をもらいますよね。日記は、そういう意識にも結びつかないような健康につながっているように思います。お医者さんに会うっていうよりかは、「誰かと一緒に居ることの健康」みたいな。
──ああ、わかります。
栗本さん:ほんとに、そこにいるだけ。アドバイスをくれるわけでもないし、 何かしてくれるわけでもない。だけど、そこにいてくれるってだけで助かることがある。「何があってもそばにいてくれる存在」があることの安心感と近いのかもしれないです。
日記を通じて世界を見つめると、他人の生活が細かく分かれていく
──日記は「書く」以外にも、「読む」という楽しみ方もありますよね。「読む」という観点では、日記にはどんな面白さがあると感じますか?
栗本さん:とてもざっくりと言ってしまうと「みんな生きている」と感じられることだと思います。それぞれの生活があるっていうことが、細かい日々の積み重ねから具体的にわかるんですよね。
もちろん、街を歩いていてすれ違う人を見て「エコバックを持っているから、これから買い物に行って、ごはんを作るんだろうな」みたいに日常の営みがあることはわかるんだけど、実際どういう経緯で、どんなことを思ってそうなっているのかはわからない。想像だけでは他人にリアリティがないんですよね。
でも、日記でその人の生活の記録を読むと、いつどこにいて何をしていたのか、そこで何を思ったのかを具体的に知ることができる。そうすると「自分と他人」っていう二分した眼差しで見ていた世界が、「自分と他人たち」に変わるんですよね。
──「自分と他人たち」とは?
栗本さん:普段は「他人」と一括りにしてしまっているけれど、本当はもっと細かく分かれていて、それぞれ自立して生きている、というか。ぼんやりとしか見えていなかった「他人」のディティールがより細かく見えてくる気がするんです。どんなことがあっても、その人にはその人の事情があることとか、ここまで生きてきて経験してきた何かがあって今そうなっている、ということが見えてくる。そうすると、想像するきっかけが生まれて、良く言えば人に優しくなれると思うんですよね。
──街中や電車の中にいる人たちが、風景の一部ではなく、一人ひとりの「人」として見えてくる感じでしょうか。
栗本さん:そうですね。以前お店で日記をつけるワークショップを行ったときに、日記屋のことを「窓屋さん」と言ってくれた参加者の方がいたんです。アパートやマンションって、窓がいっぱいついていて、部屋の電気がついているな、とかバスタオルを3枚干しているな、っていうのが外からわかる。そういう様子を見ることで、あの部屋一つひとつに生活があるんだな、と想像できる。日記もそんな窓ともしかしたら似ていて、それをお店でやっているから窓屋さんですね、と。
──素敵な表現ですね。
栗本さん:これも日記の魅力のひとつだなと感じているのですが、「日記」の内容そのものはごく個人的である一方で、日記についている「日付」はとてもパブリックなものなんですよね。
今生きている人たちには、誰にとっても2023年◯月◯日がある。それだけで、誰とでも共通点を見つけることができる。たとえばエッセイは、その人に興味を持っていたり、境遇が近かったりすることで作者とのつながりを感じられるけれど、日記の場合は自分と全然関わりがない人、自分とはほど遠く感じる人とでも日付だけは絶対につながっていて。どの人の生活も、自分と比較して読めるのが、日記の面白さだなと思います。
──エッセイと比べると、知名度や良し悪しのようなものさしがあまり関係ないジャンルですよね。
栗本さん:武田百合子さんの『富士日記』は、まさに「誰のどんな日記も面白い」ことをわかりやすく表しているような気がします。著者は作家のパートナーの方なのですが、この人は当時日記を物書きとして書いていたわけじゃないんです。パートナーの方に書いてみなよと言われて日記を書き始めて、毎日のことを簡素な文体で記録している。でも読むと、どんな人にもその人だけの文体があるという面白さがあることに気づくんです。そうした日記の魅力を感じられる本なんじゃないかなと思います。
──上中下巻の3編に分かれているんですね。家にたしか中巻だけあったような……(笑)。
栗本さん:大丈夫です、どこからでも読めるのが日記なので(笑)。生活に始まりと終わりがあるわけではないから、気になるところからページをめくっても楽しむことができるのは日記本ならではですね。
自分が日記だと思えば、それは日記になる
──栗本さんは以前ほかの取材で、大学時代のご友人に限定公開の日記を見せてもらうようになってから、日記に興味を持ち始めたとお話されていましたよね。その前は日記をどのように捉えていましたか?
栗本さん:特に意識したことはなかったですね。その頃は日記をつけていなかったし、ほかの人の日記を読んだこともなかったので。美術大学に通っていて、たとえば何か問題や課題があって、どう整理したり作ったりしたらその状態を変えられるか、みたいな制作に取り組んでいたのですが違和感というか。自分があまりそれらをやりたくないと思っていることに気づいたんです。
そういうもやもやを抱えているときに友だちの日記を見せてもらって、「あ、やりたいことってこれだったんだ」と自分の中で何かが大きく動いたんですよね。日記って何かを変えようとして行うものじゃなくて、もっと素朴に今日起こったことや思ったことを記録していく行為で、だけれど、結果的にみると何か変えるきっかけや自己表現になったりしている。歯磨きや爪切りのような、取り止めのない生活習慣が積み重なることで作品になる、そういう形がすごくしっくりくるな、と感じました。
──たしかに、日記は制作というよりは歯磨きや爪切りの延長にある気がします。
栗本さん:日記をつける人の話を聞いていると、紙のノートを使っている人、パソコンのドキュメントに記す人など、人それぞれ書いている場所が違うんですが、なかにはGmailの下書きに書いている人や作品としてドローイングの日記をつけている友人もいて。
──メールの下書きも驚きですが、ドローイング作品の日記もすごいですね。
栗本さん:ただの線だけなんです。側から見たら、何が描かれているのかわからない。それで友人に「これを見て、いつ何を描いたものか思い出せるの?」と尋ねたら、本人は思い出せる、と。それなら日記だなと思いました。
Gmailの下書きに日記をつけている人も、ドローイング作品を作っていた友人もそうなのですが、共通しているのは「記す場所」がそれぞれ生活に密接しているということ。前者の方は仕事で普段メールをよく使うから、ぱっと書き残す場所としてメールが最適だったようです。日記をつけるために新しいアプリを使おうとしてみたり、日記用のノートを作ろうとすることは生活の導線をひとつ増やすことになってしまうので、型にとらわれず、自分のつけやすい場所を見つけるといいかもしれません。
──日記って「日記用の何か」に残さないといけない、と思い込んでいたかもしれないな、と気づきました。日記を続けるためのコツはありますか?
栗本さん:続けなくてもいいんですよね。うーん、そうだな、自分の中で当たり前になっていることを見つけていくといいんじゃないかなと思います。先ほどの日記をつける場所の話にもつながりますが、「これが自分にとっていちばん心地いいな」と思える日記のつけ方が見つかればいいんじゃないかな、と。
本当は毎日書くことがなくて、心地いいのは、週に1回だけ書くことかもしれないし、何かあったときにときどき書くことかもしれない。でも、「日記を毎日書く」ということがその人の中で当たり前になっていたら、しんどくても書かなきゃ、という状態になってしまう。
──ああ、そうか。それも「こうじゃなきゃいけない」と、どこかで決めつけてしまっているということですね。
栗本さん:そうですね。文字ではなくても、暗号でも、ほかの人には意味がわからなくても、本人さえそこに記憶を残せていれば、それは日記なので。自分が何を当たり前としているか気づいていない場合もあるから、こだわっていることを見つけて認めたりなくしたりしていくのがいいんじゃないかなと思います。
栗本さん:荒川洋治さんの『日記をつける』を読むことは、今話したようなことに繋がる気がします。「日記をつけるとはどういうことなのか」「日記をつけるときに人は何を考えているのか」など日記をつけることについて綴られている本なんですが、本書を読むことで自分の当たり前に思っていた日記の形を点検することになるのではないかなと思います。
日記をつけたからといって、すぐに自分の暮らしや環境が変わるわけではない。それでも、日記が生活の中にあることで、自分を肯定してあげられるようになったり、他者の輪郭がより捉えられるようになっていく。「毎日書かなければいけない面倒くさいもの」、日記をそんな風に捉えていた人も、「この先も覚えていたい」「忘れたくない」と思う感情を、記録することから始めるのはどうだろうか。
日記屋月日
2020年4月に東京・下北沢にオープンした日記専門店。新品・古本問わず、様々な日記本を取り扱う。コーヒースタンドが併設されており、コーヒーやビールを楽しむこともできる。
住所:〒155-0033 東京都世田谷区代田2-36-12
営業時間:8:00-19:00(18:45ドリンクラストオーダー)
HP:
tsukihi.jp
X :
https://x.com/nikki_tsukihi
Instagram:
@nikki_tsukihi
Text:ひらいめぐみ
Photo:山口こすも
Edit:白鳥菜都