タイの首都、バンコク屈指のビジネス街・アソーク。高架鉄道BTSアソーク駅から北に徒歩10分、メイン通りから小さな飲食店がひしめく細道に入り、タウンハウスの一角にひっそり佇む店の木製の引戸を開けた。ふわっと漂うコーヒーの香り。席数は15席。ダークブラウンを基調とした落ち着いた雰囲気の店内では、タイ人や欧米人の客がカウンターやテーブル席で談笑しながら、コーヒーを飲んでいる。
取材当日、にこやかな笑顔で迎えてくれたのが、コーヒーショップ「Y’EST WORKS」のオーナー、廣瀬達也さんだ。コーヒーの苦味が得意でない筆者に、「うちは焙煎が8段階あります。中深煎りのシティローストはバランスが良くて、飲みやすいですよ」と勧めてくれた。
ハンドドリップコーヒーは、1杯120バーツ(約490円、1タイバーツ=約4.1円として換算)。ひと口含んだ瞬間、すっきり爽やかな味わいとナッツのような豊かな香りが広がった。この豆の産地は、タイ北部チェンライの「Doi Mork」(ドイモーク)農園。この農園から、廣瀬さんの起業物語は始まった。
稀人No.004
Y’EST WORKS・廣瀬達也
タイのコーヒーショップ「Y’EST WORKS」(エスト・ワークス)のオーナー。1994年、京都府京田辺市生まれ。立命館大学在学中に、大阪北区でカフェを開業。卒業後、22歳で単身タイへ。2019年6月、バンコクのビジネス街アソークに「Y’EST WORKS coffee roastery」をオープンし、現在はバンコク都心に3店舗を展開している。
Instagram:@yestworks
消えた「ハンドボール少年の夢」
1994年、京都の京田辺市で生まれた廣瀬さんは、銀行員の父、保育士の母、兄の4人家族で育った。毎日同じ電車に揺られ、定時に帰宅する父のサラリーマン生活が「単調で退屈そう」に見え、「俺はもっとおもしろい生き方がしたい」と漠然と感じていた。
コーヒーを初めて飲んだのは、高校2年生のとき。母が飲むコーヒーの香りにつられて一口もらうと、「苦い!」と顔をしかめた。だが、香りが好きで飲み続けていたら、1年後には大好物になっていた。
京田辺市はハンドボールが盛んで、廣瀬さんも8歳からハンドボールに明け暮れた。中学時代は部活のキャプテンを務め、全国大会にも出場。卒業後は、京都トップの強豪高校に進学した。
「小学生の頃からずっと、体育の教師やスポーツ指導者になるのが夢でしたね」
しかし高校では、1年にわずか数日しか休みがない過酷なトレーニングや、膨大な知識の詰め込みに疲弊してしまう。立命館大学に進学後も、ハンドボールは続けたが、いつしかスポーツの道に明るい未来を描けなくなっていた。そして大学2年の秋、全国大会の出場を最後に、12年続けたハンドボールをすっぱり辞めた。
「これからどうする?」と焦った廣瀬さんが、起業に興味を抱いた最初のきっかけは、スケボー。ハンドボール引退後、中学時代に始めたスケボーに再びのめり込んだ際、練習場で出会った自営業の男性から、初めて商売の話を聞いた。
「ビジネスの世界にワクワクして、そこから友人のつてをたどり、数名の経営者に会いに行ったんです。するとほぼ全員から、『飲食なら、短期間で経営のサイクルをひと通り学べる』とアドバイスをもらって。コーヒー好きだしカフェがいいかも? と考え始めました」
ちょうどその頃、大阪で10日後にコワーキングスペースのオープンを控えた経営者から「おまえ、おもろいな。場所を貸すから、コーヒー屋をやってみいひんか?」と、話を持ちかけられた。「とにかくなにかを始めたい!」と思っていた廣瀬さんは、二つ返事で参画を決めた。
「せっかくなら、コワーキングスペースのオープン日に間に合わせよう!」という話になり、コーヒー屋の開業準備は急ピッチで進められた。
初海外が「タイ移住」
大学3年の4月、梅田駅近くのコワーキングスペースの一角を間借りして、廣瀬さんはカフェ「STAND COFFEE roasters」を開業した。初期投資は、50万円で購入した焙煎機のみ。その他の機材や備品は、営業をしながら必死で買い集めた。
カフェの近くの老舗コーヒー問屋から豆を仕入れ、ブレンドコーヒーの販売を開始。コーヒーの抽出や焙煎は基本的に独学で学び、より専門的な知識を深めるために、ワークショップやセミナーにも参加した。利益が出たら、木材を調達してテーブルを組み立て、パレットで色を塗り、少しずつ店を形にしていった。
コワーキングスペースは複数人で運営されていて、プログラマーやウェブデザイナーもいた。カフェの営業中に、彼らからプログラミングやグラフィックデザインのツールの使い方を教わり、ECサイトの構築や商品のパッケージ制作にも挑戦。少しでも利益を生むために、ケータリング事業やイベント出店など、あらゆる試行錯誤を続けた。
「手探りで苦労しつつも、自分が作った空間でお客さんが喜んでくれるのが、めちゃくちゃ嬉しかったですね。就職する気は1ミリもなくて、将来的には衣食住に関わるすべての事業をやりたいと考えていました。その一環として、カフェ事業を成功させたかったんです」
だが、客単価が低く競合も多いカフェ業界の現実は厳しく、毎日の営業で精一杯。悩みに悩んだ末、「コーヒー屋さんは儲からない」という結論に至り、大学卒業を控えた2017年2月、店を畳んで別の道を探すことに決めた。
「せっかく新しい挑戦をするんだったら、まったく違う環境で、未知の世界を見てみたい。そんな想いが膨らむうち、“海外”が選択肢に入ってきたんです」
実は廣瀬さんは、それまで海外経験がゼロだった。にも関わらず、知人のバー経営者経由で舞い込んだ「タイのフリーペーパー営業の求人」に手を挙げたのだから、かなり大胆だ。
「ほぼ勢いでしたね(笑)。タイでいろんな経験を積んでビジネスの軸を定め、3年以内に日本に戻って起業しよう。そんな計画でした。この決断に対して両親は寂しそうでしたが、『自分で決めたんやったら頑張っておいで!』と背中を押してくれました」
2017年3月、大学の卒業式の翌日、22歳の廣瀬さんは真新しいパスポートを握りしめ、人生で初めて国際線の搭乗口に並んだ。「先入観に囚われたくない」という思いから、タイという国や住む街について、一切調べずに飛び立った。
バンコクの空港からタクシーで2時間走った先にたどり着いたのは、タイ東部チョンブリー県の西海岸に位置するビーチリゾート、パタヤ。上半身裸の欧米人たちが、昼間からビールを飲んでくつろぐ光景を前に、「別世界だ」と興奮した。
無事に新しい職場の上司と合流し、そのまま街の高台にある展望台まで案内してもらうことに。たどり着いて街を見下ろすと、地平線まで続く海を一望でき、吹き抜ける潮風が心地よかった。
「これから人生の新しいステージが始まるんだ!」
どうしようもなく胸が高鳴るのを感じた。
タイ北部チェンライのコーヒー農園に魅せられて
廣瀬さんは、タイ・チョンブリー県に拠点を置くフリーペーパーの制作会社で、営業兼グラフィックデザイナーとして勤務した。タイ各地の取材も任され、仕事は楽しく充実していたものの、「ビジネスの軸探し」は難航した。
その時期、現地のカフェで「Thai Coffee」というメニューの存在に気付き、この国がコーヒーの生産国だと初めて知った。特に、地理的条件が栽培に適したタイ北部では、王室が支援するプロジェクトのもとでコーヒー栽培が推進されていて、廣瀬さんも興味を抱いた。
「ただ、こっちで飲むコーヒーがぜんぜんおいしくなかったんです。豆は古くて渋いものばかり。店でブラックを頼んでも、タイの方は『苦すぎて飲めないから』と勝手に砂糖をドバドバ入れるので、激甘で。もっとおいしく飲めるのになぁと、歯痒く感じていました」
タイに来てから1年後の2018年4月、転機が訪れる。廣瀬さんはその日、フリーペーパーの取材で、タイとラオスの国境を接するタイ最北の地、チェンライを訪れていた。標高1250メートルの山奥にひっそりと佇むコーヒー農園が、冒頭で登場した「Doi Mork」だった。
Doi Morkは、山岳民族のリス族が家族経営でこじんまりと営んでいた。緑豊かな農園の一角に豆の精製所があり、生豆がテーブルに広げられ、鮮やかな民族衣装を纏った子どもやお年寄りが、家族総出で選別を行っていた。その慣れた手つきや丁寧な仕事ぶりを見て、廣瀬さんは驚いた。
「正直、舐めてたんです。街のまずいコーヒーのイメージが強くて、作業も適当なんやろうなって。想像を覆す光景に胸打たれると同時に、『なんでこんな良い豆が市場に流通してへんの?』と疑問でした」
農家の人に尋ねると、彼らの販路はごくわずか。素朴な笑顔を前に、「もっと彼らの努力や仕事ぶりが報われてほしい。なにか力になれないか……」と頭を捻っているうちに、閃いた。
「この豆を自分がバンコクで販売して、ビジネスにできへんか?」
コーヒーなら、学生時代の起業経験を活かせる。その場で村の村長にアイデアを伝えると、「いいね!」と前向きな返事をくれた。
チェンライから戻り、事業構想を練るなかで心に決めたのは、「コーヒー豆を販売する専門店を開き、豆をブランド化して販売すること」。この背景にはどんな想いがあったのだろうか?
「生産者を支援する上で、“山岳民族が丁寧に栽培したコーヒー豆” といったストーリーを語るだけでは、ちょっと弱い気がしていて。僕はそのストーリーを活かしつつ、自分のブランドとして確立することで、市場価値を底上げしようと思いました」
当時のタイでは、「豆をブランド化」すること自体が異例の挑戦だった。現地では、自分で豆を購入して抽出するドリップコーヒーが一般的でなかったからだ。
だが廣瀬さんには、揺るぎない想いがあった。
「タイにドリップ文化が浸透すれば、良質な豆の流通が増え、市場を最適化できるはず。タイ産コーヒーのポテンシャルを掘り起こし、おいしい飲み方を伝えることで、みんなの生活を豊かにしたい」
当時は英語もタイ語もほとんど話せず、強力な人脈もなかった。「コーヒー屋なんて、趣味レベルじゃなきゃ続かないよ」と心配もされた。それでも、ブランド作りや店舗作りの経験を糧に「きっとカタチにしてみせる」と、タイ産コーヒーの可能性に賭ける覚悟を固めた。
埋もれたタイ産コーヒーを、オリジナルブランドへ
廣瀬さんの起業準備は、タイのコーヒー業界の市場調査や、タイ産コーヒーの愚直な研究から始まった。毎日豆を焙煎し、テイスティングを繰り返す。その中で、「豆の品種や水分量、加工法、焙煎レベル、抽出方法など、組み合わせ次第で味は無限に広がる」と肌で感じた。
研究結果を元に、初心者でもオーダーしやすいよう、豆の産地や8段階の焙煎、抽出方法などの特徴をまとめたチャートを作成した。
「生産者に光を当てるには、消費者側の受け皿が必要不可欠です。だからまずは消費者にコーヒーの知識を提供することで、意識の向上に繋げたいと考えました」
事業の核となるブランドコンセプトは、「Find Your Best」(あなたのベストなコーヒーを見つけてください)。店名は、YourのYとBestのestを繋げ、「Y’EST WORKS」と名付けた。
「人の味覚や好み、コーヒーの楽しみ方は十人十色で、あくまで主役はお客さん。こちらからオススメはするけど、ぜひ自分で好みの一杯を見つけてほしい。そんな想いを込めました」
豆の仕入れ先は、直接現地に出向くか、紹介を通じて開拓した。バイクでチェンマイの山奥に入り、コーヒー農園を飛び込み訪問したこともある。
「一番苦労したのが物件探しですね。バンコクで店舗物件を取り扱う不動産会社はごくわずか。足を使って空き物件を探し、やっと良い物件に出会っても、一瞬で誰かに押さえられてしまって。ここ(1号店)の契約にこぎつけるまで、3ヶ月以上かかりました。初期費用は、お世話になっていた方からの出資と自己資金で、なんとか賄いました」
開業を2ヶ月後に控え、イベント出店した際、「カフェ経営が夢で、無給で良いので修行させてほしい」と、廣瀬さんに声をかけてきたタイ人女性がいた。ミックスと名乗る彼女をアルバイトとして雇ったところ、気付けば心強いパートナーになっていた。
「Doi Mork」を訪問してから1年。2019年6月、廣瀬さんはバンコク都心のアソークに、コーヒーショップ「Y’EST WORKS coffee roastery」を開業した。カフェスペースを設けた店内の内装やロゴ、プロダクトデザインは、すべて自身で手掛けた。
メニューはコーヒードリンクと、コーヒー豆のみ。当時、ひとつの豆を複数の焙煎レベルで焼き分けて提供する店は珍しく、「自分好みのコーヒーを探せる店」という尖ったコンセプトはバンコクでも異彩を放った。開業直後から、毎週のようにメディアの取材が殺到。流行に敏感なタイ人の若者を中心に評判を呼び、豆の品質も高く評価された。
一方、プライベートでは、タイで出会った日本人女性と2018年に結婚。開業とほぼ同時期に息子が誕生し、仕事に育児に多忙を極めた。
「当時はハードでしたね。朝7時半から店頭に立ち、20時ごろに一旦帰宅して夕食。息子が起きていたら寝かしつけて、そこからまた店に戻り、夜更けまで焙煎や事務仕事をしていました」
開業して半年が経ち、「いよいよこれから」と思った矢先に、パンデミックが襲来。店内飲食の禁止により、経営は大きなダメージを受けた。しかし、在宅時間が増えたことで豆の売上が伸び、「コロナ禍での生き残りを支えてくれた」と振り返る。
新陳代謝の活発なバンコクで、単なる流行りのカフェはすぐに飽きられてしまう。だがY’EST WORKSは、上質なコーヒーを提供し続けることでファンを増やし、人々の日常に溶け込んでいった。
「開業当初は、豆の焙煎レベルで味が変わることさえ知らないお客さんが大半でした。でも今では、『ミディアムローストはある?』と聞かれることも増え、コーヒー文化が徐々に成熟してきていると感じます」
筆者のタイ人の友人も、「Y’EST WORKSのコーヒーは、おいしくて大好き」と話す。廣瀬さんの挑戦は、タイのコーヒー界に新しい風を吹き込んだ。2020年12月には2店舗目を、2021年6月には3店舗目を出したことからも、着実にブランドとしての地位を築いていることがわかる。
誰かの日常をデザインしたい
2023年6月、Y’EST WORKSは開業5年目に突入した。廣瀬さんは現在、バンコク都心に3店舗を手掛ける経営者かつ、2児の父として、変わらず多忙な日々を送っている。
ミックスさんを始め、同世代のタイ人スタッフと和気藹々と店頭に立ち、「やっぱりお客さんの喜ぶ顔を直接見れるのが、何より嬉しいですね」と笑う。
この4年で、取引農家は15件に増えた。客のニーズに応え、ラテ系やスイーツ、デカフェメニューを追加するなど、試行錯誤も怠らない。
「僕は飽き性なんで、3年続けば良い方だと思っていたんです。でもコーヒー事業は、いろんな形でいろんな人に提供できるおもしろさがある。簡単に儲かるビジネスモデルではないけど、可能性の幅を少しずつ広げて、作りたいものを自分で作っている今は、まだまだ楽しいですね」
廣瀬さんの頭のなかは、常にアイデアや構想で溢れている。コーヒーの味と同様に、その可能性は無限大だ。今後の展望について尋ねると、爽やかな笑顔で答えてくれた。
「僕がやりたいことって、究極的には村や国づくりかもしれません。他人がデザインした社会で生きるんじゃなく、自分で作ってみたい。僕のプロダクトや世界観が誰かの日常に入り込むことで、幸せを届けられたら嬉しいなぁって。その一歩として、まずはコーヒー1杯から挑戦しています」
写真提供:廣瀬達也
執筆
日向みく
バンコク在住ライター。岡山出身。キャリアやビジネスなど幅広いテーマで、人や企業への取材・インタビュー記事を執筆中。「善く生きる人への取材を通じ、善く生きる人を増やす」をミッションに掲げ、その魅力や情熱を広く世に届けることを目指している。世界43ヵ国を訪れた旅好き。
編集、稀人ハンタースクール主催
川内イオ
1979年生まれ。ジャンルを問わず「世界を明るく照らす稀な人」を追う稀人ハンターとして取材、執筆、編集、イベントなどを行う。