「中学校には、ほぼ行ってないですね」。そう笑いながら話すのは、中学卒業後、高校に進学せずに15歳で弟子入りした、落語家・桂枝之進だ。落語とクラブカルチャーをMIXしたイベント「YOSE」を開催するなど、伝統芸能である落語を再定義、発信する彼の原点は「実家にテレビがなかった」ことにあるという。一風変わった人生を歩んできた、桂枝之進という人を作り上げたものとは。
落語家・桂枝之進(かつら えだのしん)
一.「落語との出会い」五歳
彼が落語を初めて観たのは、5歳の時だったそう。「小さい頃から文化的なものにたくさん触れてほしい」という両親の考えで、近所の「落語会」に行ったのがきっかけだった。
「着物を着た知らないおじさんが出てきて、正座して話し始めて。当時はそれが“落語”ってことも知らなかったし、言葉を全て理解できたわけじゃなかったので、漢字を飛ばし読みする感覚で、分かるところだけ聴いていました。周りには年配の方しかいなかったんですが、みんな話を聴いてゲラゲラ笑っていて、その光景はかなりインパクトがありましたね。『なんだろう、これは!』っていうのが最初の印象でした」
そんな印象的な出会いから約2年後、落語と思わぬ再会を果たすこととなる。
一.「落語との再会」七歳
「飛行機の機内オーディオを聞いていたら、たまたま落語が流れてきたんです。そこで『あ、あの時(5歳)に聴いたあれだ!』って繋がって。その時に、初めてちゃんとストーリーの面白さを理解できました。“猫を食べる”みたいな、とんでもない話だったんですけど(笑)。初めて落語って面白いなと思いましたね」
両親も祖父母も特に落語が好きだったわけではないそうだが、不思議なことに、その後も「ちょこちょこ落語との接点があった」。
一.「落語を演じ始める」九歳
7歳で落語の面白さを理解してから、たまに落語を聴いていたという彼。すると9歳の時に、図書館で一冊の本に出逢うこととなる。
「落語の『速記本(そっきぼん)』を見つけたんです。いわゆる台本みたいなものですね。それを読んでいるうちに、内容を勝手に覚えてきて、友達の前で落語をやるようになって。それから自分で演じることにも、どんどんハマっていきましたね。中学生の時には、落語を演じることにのめり込んでいました」
「学校の勉強よりも、圧倒的に落語に割いている時間が長くなった」という彼だが、時間を割いていたのは、実は落語だけではなかった。
一.「ラジオ、映画、寄席。ときどき、ゲストハウス」十三、十四、十五歳
「義務教育って大体卒業できるんじゃないですかね? 一応、卒業証書はもらえましたよ」
そうあっけらかんと話す彼は、なんと「中学校にはほとんど行かなかった」そう。しかし、この時期に経験したことが、落語家・桂枝之進という人を作り上げたと言っても過言ではない。
「実家にテレビがなかったんです。テレビがないってどういう状況かというと、エンタメが日常に存在しないんですよ。そうなると、“エンタメへの渇望”がすさまじい。自分の足で、エンタメを見つけないといけないんです。エンタメを自分から見つけにいくうちに、がっつりハマって、徐々に学校に行かなくなりました(笑)」
まず手始めに、駅前のレンタルビデオショップに通い始めた彼。お小遣いを握りしめ、向かった先は一週間100円で借りられる「旧作コーナー」だった。
「安いからって理由で、旧作をむさぼるように観ていて、クラシック映画を好きになり始めたのはこの頃。毎週10本くらいレンタルしていたので、そのお店に置いてある作品は見尽くしたと思います」。
“エンタメへの渇望”はそれに留まらず、家にあった「ラジオ付きCDプレーヤー」で、ラジオを聴き始めたという。
「『FM802』で当時インディーズロックがパワープレーされていて、それがきっかけで邦ロックにハマりましたね。『伊集院光 深夜の馬鹿力』とか『オールナイトニッポン0 (ZERO)』にどっぷりハマって明け方まで聴いて、次の日の学校は普通にサボってました。あと、ラジオの特別番組で、一週間ブッ続けで昼から夜まで落語を流すっていう、とんでもない企画があって、その時は一週間学校を休んで全部聴きました(笑)」
他にも「落語を観るために学校を休んで、当時住んでいた神戸から、一人で大阪に行っていました。寄席(よせ)が開くまでは、映画館で『午前10時の映画祭』という、500円くらいで映画を観られるチケットを買って観ていましたね」と、楽しげに話す彼。しかし、両親はどのように思っていたのだろう。
「両親にも先生にも『学校に行きなさい』って怒られてましたよ。でも、自分なりの正しさみたいなものは一応あって。学校に行かなくても、何かに熱中して、それによって社会とのつながりを保てていたら、僕にとっては問題ないっていう認識だったんです。ただ何もせずに怠惰な生活をしていたら、さすがに俺ダメなやつじゃんってなると思うけど」
「学校に友達はいたけど、学校という組織は嫌いだった」そうで、全国のゲストハウスを回って「落語を披露して、無料で泊まらせてもらう旅」も行った。
「別に学校に行かなくても、自分が得意とする落語で全国を旅していたら、僕の中では、それはもう人生経験としてオッケーみたいな考え方でしたね」
一.「プロの落語家を目指し、桂枝三郎氏に弟子入り」十五歳
高校に進学せずに、桂枝三郎(かつら えだざぶろう)氏に弟子入りした理由を聞くと、「進学して落語への熱が冷めたら嫌だったし、それが一番自然だったから」だという。弟子入りする前、学生の時は、人間国宝の故・桂米朝(かつら べいちょう)氏のCDを書き起こして暗記したり、YouTube動画を観て真似したりして、落語を独学していたという彼。弟子入りしてからは、古典を一から学び直し、師匠の三遍稽古(さんべんげいこ)で落語の「間(ま)」や「リズム」などを習得し、一歩一歩プロの落語家への道を進んでいった。
では、「僕の人格をモロに形成した」という今まで吸収してきたカルチャーをどのように落語に落とし込んでいるのかを尋ねると、「直接落とし込むっていうのは難しいんです。でも、観たり聴いたりしてきたカルチャー全てが僕の人格を形成しているので、落語を演じているときに、それらが全て滲み出ていると思います」と話す。
「僕は、落語の本質って“人”だと思っているんです。全てを削ぎ落としたときに残るのって“人”で、“人”が話しているから落語なんですよね。落語を演じていると、話を通して全ての登場人物にその人が透けて出るんです。なので、自分が落語やっているときも、“自分そのもの”が全てお客さんにバレてしまう。それをどう受け取ってもらえるかというコミュニケーションが、落語だと思っています。
一.「『Z落語』を通して落語を“大衆芸能”に」十七〜二十歳、そして未来へ
桂枝三郎氏に弟子入りしてから3年が経ち、修業を終えたちょうどその頃、コロナ禍が始まることとなる。実はこの“コロナ禍”が、彼の落語家としての活動に大きな影響を与えた。
「寄席って、戦時中でさえ開いていたんですよ。でもコロナ禍で、数ヶ月閉まったわけです。落語界の歴史にとっても前代未聞の出来事というか。『誰も正解を持っていない』と思った時に、今何かしなきゃ、と思いました」
そんな思いから立ち上げたのが、同世代のデザイナーやカメラマンなどのクリエイターと共に活動する、落語を再定義、発信する落語クリエイティブチーム「Z落語」だ。
動画提供:Z落語
落語とクラブカルチャーをMIXしたイベント「YOSE」などを行う「Z落語」だが、なぜ歴史あるエンタメの“落語”と、現代的な“クラブカルチャー”を掛け合わせることにしたのだろう。そこには、さまざまなカルチャーを吸収してきた彼だからこその考えがあった。
「江戸時代、落語の寄席は都内だけでも400軒ほど存在していて、そこでは日々新しいカルチャーに触れられるだけではなく、町内の人々が顔を合わせるコミュニティ的な側面もありました。これが現代でいうところのクラブに近い構造だなと思い、落語とクラブカルチャーをMIXして“新しい時代の寄席”を作るというコンセプトの元「YOSE」を企画しました。また当時はコロナ禍真っ只中で、みんな失われた身体性を取り戻したいという欲求が高まっていたので、コミュニケーションが創発される空間やコンテンツのインタラクティブな体験の部分にこだわって制作しました。
今、落語は過渡期を迎えています。それは、伝統的なものになるか、大衆的なものであるかという。僕は、落語を50年後も継いでいくには、大衆的なものであるべきだと考えていて。大衆的なものとして繋いでいくために、『Z落語』で若い人たちにも受け入れやすい形で落語を知ってもらう機会を作っています。落語を守っていくために、あえてリベラルなことをやっているんです」
今年からは、海外に向けた発信もしていく予定だという「Z落語」。
「落語って、話を聴いて情景を頭に浮かべて楽しむ芸能なので、言語を変えてやればいいっていうわけじゃない。グローバルでは、思い切り大胆なことをやろうと思っています。そして、国内外どちらも、とにかく『ポップなものを作ろう』っていうのが今年一年の僕のテーマです」
桂枝之進(かつら えだのしん)
2001年6月20日生まれ。2017年1月 六代文枝一門三代目桂枝三郎に入門。2017年12月 天満天神繁昌亭「枝三郎六百席」にて初舞台。
全国の寄席やイベント、メディア等で活動するほか、2020年、落語クリエイティブチーム「Z落語」を立ち上げ、渋谷を拠点にZ世代の視点で落語を再定義、発信するプロジェクトを主宰している。
web:Z落語|OfficialSite
Instagram:@edanoshin
撮影協力:「渋谷スターラウンジ」
動画提供:Z落語
Interview&Text:那須凪瑳
Photo:SHOUTA IKEGAMI