コンピューテショナルデザインを取り入れ、建築、都市、ファッション、プロダクトへと広げて活躍する大学特任教授であり建築家でもある豊田啓介さん。都市の未来を提起する豊田さんの現在を培っているのが、安藤事務所、そしてアメリカでの留学と就職の経験です。Beyondストラテジーディレクターであり、モータージャーナリストの川端由美が、ひたむきに建築に向き合ってきた若き豊田さんの軌跡を引き続きインタビュー。
徹底的な手作業で、体にアルゴリズムを染み込ませる
川端 ヨーロッパへのバックパッカーの旅を経て、東大卒業後は、いよいよ大阪の安藤事務所での日々が始まるんですね。
豊田 今では信じられないかもしれませんが、当時の安藤事務所では、T定規や勾配定規を使って、徹底的に手作業で図面をつくっていました。何百億円のプロジェクトも、すべて手作業です(笑)。
川端 ええー! それは驚きです。キャドやパソコンが普及する、ギリギリ前の時代だったということですか。
豊田 そうでもなくて、建築の世界にもコンピュータが少しずつ入ってきていました。しかし、安藤事務所では、完全にアナログでいくというのが方針だったんです。
安藤事務所で最初にJW CADという当時使われ始めていたCADを使った世代なんですが、その頃、研究所にあるパソコンの計算能力はたったの400キロバイト。平面図を1スクロールするのに5秒、端から端までスクロールするのに3分くらいかかりました。実用性はまだまだありませんでしたね。
安藤事務所が手作業にこだわったのは、ロジックを背景にものすごくアルゴリズムなやり方をするからです。この場合はこうする、この場合はこういう根拠だからこう考える、もしダメだったときはこうする。そういう事前、事前のルールを当てはめて、クリエーティブな設計をしていくスタイルでした。
川端 ものすごく本質的ですね。さすが世界を代表する建築事務所という感じです。
豊田 安藤事務所の強さって、安藤建築の強力な背景となる強度を、基本さえうまく使えれば誰がやっても一定の強度を持ちうるようなルールに落とし込むということにあるんです。そのルールが強い前提で、安藤先生がルール外から予定調和を崩す一撃を持ってくる。そのコントラストが作品性を生むんです。そこを徹底的に追求していました。プロジェクトの数も多いですし、本当にいろいろな勉強をさせてもらいましたね。
手描きがいいかどうかは別として、手で描いた図面から実際にできたものを空間として自分の体で体験できたのは、今でもすごく役立っています。一度、基礎を徹底的にやっているから、コンピューテーショナルデザインをやっていても、因果関係が想像できる。
体で体感したものをいろいろ統合して、それを抽出した先に、デジタル技術が新しい価値を持ちうる領域が見えてくるんだと思うんです。若いときにそういう統合化の経験をたくさんして鍛えておくことは、すごく大事ですよね。
安藤事務所を辞めてニューヨークへ
川端 そういうアナログにどっぷり使ってアルゴリズムを体に染み込ませるような経験を積んで、その次は海外。
豊田 安藤事務所で、ロジカルにモノと対峙する経験をできたことはすごくよかったんですが、その反面、コンピュータでできることもたくさんあると思っていました。夜中の2時、3時まで手描きで図面を引いているんですが、「これ、ロジックをコンピュータに組み込めば一瞬でできるはず。それなのに、なんで俺はひと晩中、手を動かしているんだろう?」って疑問を感じるようになったんですね。
そもそも自分の興味は、集落の背景にあるDNAのようなものをどうデザインするかという間接的なデザイン。それを実現するのは、コンピュータのプログラミングの世界。そう考えると、どうしても留学したいという気持ちが抑えられなくなりました。2000年に安藤事務所を辞めて、ニューヨークにあるコロンビア大学院に留学しました
ボストン郊外にあるハーバードとマンハッタンにあるコロンビア、どちらに行こうか迷ったんですが、当時のコロンビアはコンピュータ建築の最先端だったうえ、ニューヨークで暮らせる。大学院が1年間ですむのも魅力でした。
川端 コロンビア大学院は、どうでしたか?
豊田 最初は、すごい衝撃を受けましたね。それまで正当な「建築とは?」という教育しか受けていなかったのに、全然違う。建築学科なのに動画をつくったり、音と建築、映画と建築といったスキルセットが違うことをコンセプト化して、技術にしていくんです。ロジック同士を比較したり、合成してアウトプットする訓練をたくさん経験しました。それがすごく面白かったですね。
川端 まさにやりたいことがそこにあった、という感じ。
豊田 教授がふにゃふにゃした3Dモデルの一部を指して、これがエレベーターだって言うんです。実務をやってきた僕としては、「は? なんでこれがエレベーターなんだ。全然、構造が成り立たないんだから、建つわけないじゃん」と。そういう僕が持ってしまっていた固定観念からくる違和感との葛藤は1年くらい続きました。
でも、そこで学んだのは、常識や正しいことだけを前提にすると、何も新しいものが生まれないんだということ。建つわけのないふにゃふにゃのエレベーターを、それでも仮にありだと認めてみると、これをこうしたらこうなるという、次の手がどんどん見えてくるんです。
そうすると、3、4手進んだ先に、最初はまったく想像できなかった世界が見えてくる。これはこれで価値があるじゃないか、と。そこで初めて、そこまでのプロセスを一回クリアにして、見つけた新しい価値を実現するにはどうしたらいいか、と逆転の発想で考えます。すべての要素、すべてのステップが正しいことが暗黙のうちに求められる日本にいたら、なかなか難しいことです。
川端 既存プロセスを外していくのは、かなり大変な作業ですよね。
豊田 既存プロセスを外れた瞬間に、日本の社会や企業だと「なに、それ?」って、止まってしまう。まさに最初の僕の「エレベーターなんかできるわけないじゃん」というのと、同じ反応です。でも、そのプロセスを外した先に、新しい価値の創出が間違いなくある。逆に、今の時代って、新しい価値ってそういう発想ができないと生み出しにくくなってきていますよね。
川端 今でこそ、既存プロセスを外して価値を生み出すという話も、通じると思いますが、当時はあまりにも早すぎて、ほとんどの人が理解できなかったでしょうね。
豊田 僕もこんなこと言ってますが、「そういうことだったのかも」と整理できたのは、実際は何年も経った後ですね。
コロンビア大学院で1年過ごしたあと、当時最新のコンピューテーショナルデザインで知られていた若手事務所SHoPで4年、ニューヨークで過ごしました。安藤事務所も4年だったので、ちょうど同じくらいの年月を費やしたことになります。
川端 日本に帰国しようと思ったのは、どうしてなんですか。
豊田 ニューヨークはすごく居心地がよかったんです。何者でもない、フラットな関係で仕事ができた。しかし、それもある程度までいくと、見えない壁にぶち当たるんです。本当のプロフェッショナルの領域になるほど「白人優位社会」というのが明確にあって、名前や地位ができてから外からお客さんとして来るならまだしも、ネイティブでもないアジア人が、下から積み上げて本当の最先端まで上がっていくのって、結構な壁はあるんです。
そういう背景があるから、同じような成功を得るのに、ニューヨークなら150%努力が必要でも、もともとのつながりや勘が働く日本なら、80%の努力で手に入れられます。
川端 グローバルの風は、思った以上に突風だったということですね。
豊田 入り口は、さらっと入れそうな気がするんです。でも、実際に、本気で最後の勝負に挑もうとすると、そう簡単ではなかたったですね。
<川端由美の対談後記>
前回に続く、第二回となる日本のデジタル化を牽引する気鋭の建築家である豊田啓介さんとの対談記事。日本の建築のど真ん中ともいえる安藤事務所から、世界のデジタル設計の最先端であるコロンビア大学への留学を通して、基礎を積み上げる大切さと、最先端に飛び込むことで得られる自分の可能性の広がりを体験したそうです。そんな体験を誰もができるわけではないかもしれませんが、誰もがそんな体験をできる機会を手に入れる努力はできる、そんな豊田さんのキャリア構築の過程を語っていただきました。