目に見えない敵「新型コロナウイルス」との戦いの中、症状の一つとしてあがった嗅覚障害に注目が集まり、嗅覚や香りへの関心が一段と増してきています。香りは、五感の中でも最も情動に影響します。香りは色のように共通言語がない分、表現が難しく、個々の感性に依存することが多いのです。さらに、匂いを嗅がずに共感を得るための表現に敢えて挑戦することになったクラウドファンディング。香りを表現することについて掘り下げてみます。
クラウドファンディング「Kickstarter」プロジェクトの背景
「日本の香り」を探究する中で出会った平安時代を代表するお香「六種の薫物(むくさのたきもの)」を米国の消費者に広く伝えるため、「Incense Inspired by 1000-Year-Old Japanese Blends (千年前の日本へ誘う香り)」というプロジェクトを立ち上げました。このプロジェクトでは 1900 万人が登録するクラウドファンディング「Kickstarter」を活用しました。クラウドファンディングの起用は情報拡散も目的のひとつとしており、もともとマーケティングプランには入っていました。ただし、試香できる機会も提供することが前提で。まさか、コロナ渦で当初予定していた試香しながらプレゼンする機会を失い、アメリカへの EMS が送れなくなりサンプルデリバリーも困難になり、嗅覚を使わずに、視覚と聴覚だけで香りを表現、そして共感してもらうことになるとは。
香り商品購入の決め手
購入の決め手はやはり匂いを嗅いだときの印象によるもの。例えば、ドラッグストアの柔軟剤。香りサンプルの陳列の充実さに気づいたことはありませんか?
香りの業界ではサンプリングをとても重要視してきました。香料会社でマーケティングを担当していた時、消費財のクライアント向けに商品コンセプトをプレゼンする機会が毎週のようにありました。香料会社だから香りだけ提案すれば良いと思われがちですが、その香りを表現するパッケージ(形や色味)、ネーミング、コピーなど、言語的・視覚的な情報で香りのコンセプトの世界観を伝えます。そして、香りを嗅いでもらいます。最終的には、そのコンセプトと香りが、商品担当者と担当者を通して対象となっているマーケットの消費者にどのように刺さるかで判断されることが少ないと思います。かなり主観的判断です。
香りのコミュニケーターとして、日本及びアジアのニッチフレグランスブランドをアメリカでプレゼンする際は、プロダクトデモとして必ず試香してもらいます。サンプルも渡し、消費者や専門家に体感してもらいます。
試香せず、ストーリーだけで購入した商品が手元に届いたあと、香りはイマイチだった経験もしています。匂いを嗅がせずに香り商品を購入してもらうなんぞ、ハードルが高いのです。ましてや、無名のブランドなら。それだけ香りは体感してもらってなんぼなのです。
とはいえ、私が関わったニューヨークのニッチフレグランスブランドは、ローンチ当初こそポップアップイベントへの参加で毎週のように消費者が商品に触れる機会を作っていましたが、それほど時が経たずにオンラインでの売上の方が大きくなったとも報告されています。
家時間とフレグランス
新型コロナウイルスの感染拡大によって、緊急事態宣言による外出自粛で、家で過ごす時間が長くなった結果、リテールが閉まった途端、香水の売り上げは前年比で 45% 下がりました。一方、ホームフレグランス商品の需要が高まりました。特に香り付きキャンドルの需要は凄まじく、例えば、D.S. & Durga のキャンドルはダイレクトビジネスの 40%を占めるようになりました。また、Nest New York の売上の約 90% はホームフレグランスによるもので、パンデミック前から 75% の上昇を見せました。(2020年5月4日付ニューヨークタイムズ)
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ショッピング環境がオンラインにシフトし、香りの消費も一概ではなかったようです。サンプリングが重要視される香りの世界では、かつてオンラインでのショッピング体験は難しいとされており、移行に時間がかかりました。
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時勢に伴い、香りを試香せずとも、住環境を居心地の良い場所にトランスフィームする香りが必要とされるということがわかります。香りを嗅がずに購入することに躊躇しない時代に突入したようです。メーカーやブランドはどのように香りを表現するのか、消費者はどのように購入判断するか。
香りの言語化
先に「香りは色のように共通言語がない」とありましたが、実は香りの共通言語にチャレンジしているプロジェクトが Google Research に存在します。現状では、色、つまり光には三原色があり、光の波長を見てそれが何であるかを特定できますが、香りにはそのような構造システムはなく、分子の臭気を特定することはできません。
Google Brain チームの研究者たちは、調香師が特定した約 5000 の分子データセットを作成し、「バターっぽい」から「トロピカル」および「ウィディー」といった説明を分子にラベル付けしました。そして、AI に香りの分子を学習させて共通言語化、認知できるようになりました。匂いを学ぶディープラーニングです。これにより、アルゴリズムは、構造に基づいて分子の嗅覚特性の予測ができるようになりました。匂いの記述子に最適化された学習済みの表現を抽出、これを「匂いの埋め込み」と呼びます。これは、色空間で言うところの嗅覚版 RGB や CMYK と考えることができます。
研究者の一人 Alexander Wiltschko さんに共通言語化することで得られるメリットについて直接お話を伺うことができました。「共通言語化し、匂いの予測ができれば、新しい合成匂い物質の発見に役立ち、天然物の採取による生態系への影響を減らすことができます。また、できあがった嗅覚モデルを検証することで、嗅覚の生物学について新たな知見が得られるかもしれません」
一般的に香り業界のデジタル化は遅れているとも言われていますが、実は 1950 年代後半から研究は始まっており、当時は「Smell-O-Vision」という映画の上映中に空調システムから匂いを放出し、観客が映画の中で起こっていることを「嗅ぐ」ことができるシステムで、情景を香りでよりリアルに体感するためのものでした。
香りのデジタルトランスフォーメーションはまた別の機会に書くとして、香りで表現するという意味では、1950 年代から挑戦が始まっており、現在の AI 技術にまで至るのです。将来的には本当に共通言語を持つことが可能かもしれません。
とはいっても、香りはやはり匂いを「嗅いで決まる」と個人的には思っています。
匂いの記憶
共通言語の構築は始まっているものの、香りには、どうしても理屈だけでは説明がつかない領域があります。それが感性や感覚です。
感じ方はとても主観的です。香りの印象は個々の感性への依存が強く、育った環境だったり、経験だったり、培った感性と匂いの記憶に左右される理屈では説明できない感覚です。
極端な言い方をすると、同じ人が同じ香りを嗅いだとして、今日は好きな香りかもしれないけど、明日は嫌いな香りになっているかもしれない。それくらい変化があり、流動的です。
香りを嗅がずに表現するとは、言語的・視覚的に表現した香りの情報を識別し、解釈し、意味を見出すことです。例えば、本を読んでいて、文字から情景をイメージし、そこに香りのイメージを加えることができるか、といったことです。感性と創造力が求められます。これは前述した培った感性と匂いの記憶に左右され、千差万別、人それぞれ異なります。
「香り」はダイバーシティな感覚で、究極のパーソナライゼーションである所以がここにあると思います。
なお、Kickstarter プロジェクトでは、1000 年前の香りのストーリー、コンセプトとストーリーと使用した香原料でもって、香りをイメージしてもらえるよう、プロジェクトの共感と得られる努力をしました。一定の指針は表現できたと思いますが、結局のところ、1000 年前の香りは誰にもわからない。各自の感性で、想像と妄想を行ったり来たり、香りで千年前の日本へ誘ってもらえれば光栄です。
Kickstarter プロジェクトページ